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    場所の意識

     チョンノにでかけた。ある集会への招待状が友人から来たので出かけてみた。
    http://www.nawauri.or.kr/
     ベトナム戦争で韓国軍の被害にあったベトナムの村に毎年援助に出かけて平和と和解の構築に実際に汗を流している人たちのグループだ。
     地図が載っていたので、行けるだろうとおもって出かけた。ところが目当ての建物には案内にある建物の名前があるのにだれもそれらしい人がいない。うろうろしていると、「おじさん、何を捜していますか」と聞いてくるので。メモを示して、ここへ行きたいのですがというと、携帯電話で誰かに連絡している。ここでしばらく待ってくださいというので待っていると、若者がやってきた。上記の集会関係の人かな?と思っていると、そうではない。招待してくれた人の電話番号を聞かれたのでそれを示すと電話してくれる。ついてきてくださいというのでついて行くと、私を招待してくれた友人が待っていた。
     で、私をそこまで連れて行った若者と私の友人は何か関係があるのかなと思っていると、さにあらず。友人はその案内の若者に名刺を渡して挨拶している。知らない人同士なのだ。
     で、友人に案内されて着いた会場は、私が間違えた建物から20メートルくらいのところにあった。??。はじめに声をかけてくれた人もその人から頼まれて私を案内した若者も目と鼻の先の建物の名前を知らない。しかし、全く知らない外国人を案内し顔見知りでもなかった友人と名刺をやりとりする。

     私が部屋を貸していただいているアパートは19階建ての高層アパート(マンション)で、時々エレベーターで住人とすれ違うが、会釈も挨拶もなし。日本でも挨拶くらいはする。地域という意識は希薄なのだろうか。単に新しい住宅地だからだろうか。
     よくわからないが、韓国という社会は人と人の対面を大事にする社会なのかもしれない。地域とか場所よりも人と人の繋がりで社会ができている。地域社会というけれど地縁と血縁や友縁(?)は同じではない。日本では地縁血縁というふうに連続してよく使い、近代では希薄になっていくたぐいのものというくくり方で一括されることが多い。韓国ではこの二つは日本のように同じ袋に分類されて考える種類のものではないのかも。

    yatai.jpg
     日本で道路上で屋台を開いていたりするのは少ない、韓国では昼であれ夜中であれ、ソウルの地下街であれ、果ては地下鉄のなかであれ、極小の店から大がかりな屋台まで、あらゆるところに店がある。日本なら道路交通法違反かなにかですぐに撤去されてしまうだろう。そうでなくても「地域住民」が黙ってはいない。しかし、韓国では大中小の露天は生活の一部、社会の一部になっている。
     場所の意識というのは韓国ではあまり強くないのかもしれない。湖南への差別意識とかそういう大きな地域意識は強いのだろうが、具体的な場所への思い入れというのは相対的に強くないのではないだろうか。
     社会を支えている軸は場所の意識であるよりも、人と人の対面的関係の方が大きいのではないだろうか。韓国の社会は「ウリ」(私たち)社会だとよくいわれます。他人とはまったくつながりがないが、血縁や仲間内では密接な関係をもつ、同族社会的性格を指摘されます。これは少し違うのではないか。場所の感覚がおおらかというかアバウトで、人と人との繋がりこそが社会であるというふうな感覚の力点の置き方が基礎意識の中にあるのではないのか。
     まあ、そんなふうなことを漠然と考えさせられた。小さな筒で一部をのぞいただけの、まさに管見ですがね。