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教育の境界研究会2007年夏季合宿レポート 2007/8/6-7 融解する「学校」 ----ポスト近代学校 北爪道夫 【概要】
1-1 出来事としてのモノ
1 近代学校の終わり 木造校舎の写真集がいくつか発行されています。最近見かけたのでは『KURA』(カントリープレス)の4月号の特集が「信州の郷愁を誘う風景 木造校舎の桜」でした。長野県下の木造の小学校校舎を6校とり上げていました。現役の小学校、陶芸家の工房兼ギャラリーとして余生を送っている校舎、教育特区学校法人として小中一貫教育の学校や私立の通信制高校として再利用されているところなどが紹介されていました。題名のようにここには木造校舎とともに桜の大樹が写真に収められています。学校に桜が多く植えられていた時代があったのでしょう。桜は4月始まりの日本の近代学校の象徴のように子どもたちととともに生きてきたのです。 ひとつの時代を生きてきた「もの」が、その時代が失われようとするとき、人々は写真にとって、それが生きてきた時代を残そうとします。そうではあってもすべての失われゆく「もの」が写真として残されてきたわけではありません。円筒状の赤い郵便ポストは時々写真に残されていますが、真黒い電話機が被写体になっている写真を見ることはまれです。だとすれば「木造校舎」が郷愁とともに残されていくのは、ひとつの時代の終わりの徴候なのかもしれません。 「ごはんですよ」と私たちは声をかけたり、かけられたりしますが、そこに炊きたてのお米のご飯がかならず用意されているとは限りません。かつて「ご飯」が定番であった時代の記憶が残っているのです。ならば「学校」として私たちが呼び習わしている施設や、そこでの営みが、100年、50年前と同じだという前提で考えることはできないでしょう。いや、20年前、5年前の「学校」ですら、いまの「学校」とは別物なのかもしれません。大枠の制度としての学校は、100年前とそれほど変わっていないかもしれません。その社会的機能も変わっていないでしょうし、子どもを学校に送り出す親たちの思いも、もしかしたら同じなのかもしれません。これからも、あれこれの「改革」を経ていくとしても近代学校は、いまの学校の継続としてイメージされているかもしれません。しかしそうした想定は疑わしいのではないでしょうか。 日常生活のありようが、長いあるいは比較的長い期間にわたって、少しずつ変化していく現象を、人間の明示的なふるまいや発言、あるいは制度やイデオロギーによって探知するのはなかなか困難です。日常とは異なる次元の出来事は言葉になり、イデオロギーになり、制度改変のきっかけになりますが、日常の微細な部分の出来事の変化は、それを生きている人たちにさえ自覚的にとらえられないことだってあります。そうした変化を突然気づかせてくれるのが、たとえば廃校になった木造校舎の写真だったりします。 「もの」の栄枯盛衰は気づかれにくい出来事を写し取っているのかもしれません。そうだとすれば、「もの」は「できごと」の一面を的確に把握し、保存している鏡=遺物だといえましょう。「もの」は日常的な「できごと」のなかでそれに介入さえし、「できごと」のなかで密かにも自らの意味を獲得してもきます。人は「もの」と「できごと」のはざまで意味を生成し、その「もの」たちと生きてきました。ですからそうした日常的な意味生成の行為と「もの」とが出会わなくなったとき、「もの」は、私たちの視界から静かに消えていくのです。そうしてその「もの」たちが担った時代の意味も、私たちの記憶から郷愁の部分だけを置き土産にして消えていくのではないでしょうか。 もはや「学校のモノ」は存在しない、と言いましたが(1)、モノをその歴史的変容としてではなく、学校に固有の属性をもつ個体として、学校の現在を映すものとしての、そういうモノは存在しなくなってしまった、と言うべきだったでしょう。 あるいは、多木浩二にならっていえば、モノのある種の表現として学校の出来事は出現してくるのだ、といえるかもしれません。木造校舎に彫刻する落書は、鉄筋校舎とともになくなっていくのですから。 もちろんそれぞれの出来事は、社会的経済的政治的な要因からも説明できるものである。だがこれらの出来事よりもはるかに古い時代から今日にいたるあいだ、人間をとりまく「もの」はさまざまに様態をかえつつ、あらゆる地上の出来事のなかに、あるいはその下層にひろがっていたのである。人間は「もの」をつくり、使い、あるいは表現の手段とし、結局は、人間同士の関係も、「もの」の関係に投影されているので、少なくとも出来事の一面は、「もの」の様態としてとらえることができよう。(2) 教育再生会議が「親学」を提言しています。「「親学」提言のポイント」を引用しておきましょう(3)。 (1)子守歌を聞かせ、母乳で育児 (2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない (3)早寝早起き朝ごはんの励行 (4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す (5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施 (6)企業は授乳休憩で母親を守る (7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞 (8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施 (9)遊び場確保に道路を一時開放 (10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる (11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める 文部科学省はこれまでも、「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」などで親教育の必要性についてあれこれ言っています。(4) この趣旨は「最近、児童虐待の増加や校内暴力、不登校といった子どもの問題行動が深刻化している。こうした問題の背景として、近年の都市化、核家族化、少子化、地域における地縁的なつながりの稀薄化等により、親の間に、子どもの教育の仕方がわからないといった育児に関する悩みなどが広がっていることが指摘されている。このため、今後の家庭教育支援の在り方について検討を行い、もって関連施策の充実に資する。」(2001/09/11)というものです。 この懇談会委員にも教育学者は入っていません。学者は大日向雅美(心理学)一人という構成です。教育再生会議に教育学の専門家を入れていないのは偶然ではなくて意図的であることはここからも推測できるでしょう。 これらの提言の中身について言えば、言われていること自体は、ずっと以前から言われている常識的なあれこれです。これは、子どもたちをめぐる悲惨な状況への政府の危機感の現れです。親たちのそれこそ無常識な子育てぶりを耳にしていますので、提言の中身がおかしいとは思わないのです。もちろん親の心がけひとつで、子どもたちの悲惨が解決できるかのようにいう姿勢は間違っているのですが。 ところで現在のあれこれの教育改革を統一的なものととらえることは要注意だと思っています。政策は様々な利害集団の力学の反映として表現されますから、教育政策といえども、相互に矛盾する政策を同時に実行するということだっあり得ます。新自由主義の教育改革としてまとめてとらえすぎないことが必要でしょう。 例えば、私たち教員をより合理的に管理するために「評価・育成システム」などを導入していますが、これは「学校」という公的なシステムを近代の経営理論を適用して、より合理的効率的に運用するための人事管理ですから、学校が近代の様々な機能分化した集団の一つである限り、近代学校の延長線上に出現したと言えるでしょう。新自由主義の教育改革はこうした近代学校純化の方向の線上にありましょう。 上記の教育再生会議の提言にしても「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」の提言にしても、親や家庭の子育てを国家が「支援」しようというスタンスです。学校の教員に対しても「教える」ことではなく「学習支援」がその役割だと、大分前から言い出しています。かつて、地域や家族の教育機能を、国家は「学校」に吸収し、近代の「国民」教育を確立してきました。このとき国家は教育の「主体」として自信をもって立ち現れていました。地域や家族の子育ての「支援」が国家の役割だなど「ひかえめ」なことなど言いませんでした。ですからこうした近代学校では教師が「教鞭」をとって「教えて」いたわけです。しかし、いまや、前記の提言などは「学校」を通過せずに、直接に(「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」は生涯学習政策局男女共同参画学習課が担当)「国民」に呼びかけています。学校の役割をそこで積極的に指示しているわけではありません。国家は近代学校のシステムをこえて地域や家庭を「教育」しなければならないという危機感をもって、介入してきているわけです。これは学校をより近代的なシステムとして純化する方向とは別のものでしょう。 学習をおこなう施設として近代学校を、より効率的で功利的な組織に再編しようとする一方で、もはや「学校」だけで社会管理統制維持をできなくなっている現実に国家は直面しているのではないでしょうか。 近代学校は法的制度的に確定している組織ですから、そこで教員たちが何をするかは、すでに明確になっています。教育の自主性などというものは自意識の過剰だ、と1950年に言い放った木田宏の見解を西本肇氏が以下のようにまとめています。 学校を近代的な〈制度としての学校〉と把握し、その基本的性格を踏まえるかぎり、学校の裁量性や自主性・自立性といった要素は、通常考えられるよりもはるかに狭いものであって、そうした〈制度としての学校〉の枠組みを無視ないし軽視して、学校に「教育の自治」や「教育の自主性」を当為的に願望するのは「過分の期待」であって、学校の自治・自主性の「いわば自意識の過剰」だという。まことにシビアな評価を下していた。(5) 公的な組織としての学校が法的制度的には解釈の余地のない自明な組織だとしても、個別具体的な教師/生徒関係をも包摂し、なんとかうまくやっていく能力をそなえていることについては、私たちはルーマンの『公的組織の機能とその派生的問題』から学習することはできますが、実はそのなんとかやっていく組織の能力自体が「近代合理性」の純化によって失われ、「近代学校」は終息に向かっていくのではないのか、というのが私のとりあえずの「仮説」です。西本さんの上記の本は、実は「制度としての近代学校」のおおきな揺らぎを測定しようとした本だったのではないのかと思います。 社会学の常識から言えば、学校は機能集団ですから、共同体とは別種の近代的なる組織です。でも、わたしたちは長い間、そして今も学校を共同体としてイメージしてきたのではないでしょうか。とりわけ教員などの学校関係者は。 西本肇さんの『学校という〈制度〉』は、学校を共同体としてはとらえない木田宏を例外として、現実の学校の生活実態を含めて把握しようとする多くの論者が、やはり学校を「共同体」に近づけて理解しようとしているのを紹介しています。佐藤道雅を引用しながら西本さんは以下のようにいいます。 佐藤がいうように、制度学校の建前である「個性化」・「個別化」に反してまで、学校を”ある種の共同体として仮構・醸成しておかなければならない”というメカニズムは、”共同体の崩壊を恐れる大衆の無意識の恐怖”によってセリ上がってくる。それは共同性を渇望する家族意識にとっては、学校の提示する〈共同性〉の中身が本物かどうかを家族が手探りしながらひとつひとつ”確かめていく過程”と重なっているだろう。(6) しかしながら、西本さん自身も学校を「共同体」的に理解すべく議論を重ねているようにみえるのです。「近代社会システムにおいて〈共同性〉や〈共同体〉が本当に可能なのか」「問題はそうした過剰な教育者意識がセリ上がってくるメカニズムにある」(P.27)と重要なことばをはさみながらも、学校の共同性を描く現場や教育学の磁場にひきこまれて西本さんも議論をしているように思えるのです。 この共同性への希求は、たとえば「クラスのまとまり」とか「もりあがり」をプラス評価する教員や生徒の心性をみればあきらかです。学校は自立した自由な個人が共通の関心や目的にそって組織されたアソシエーションである、などとはつゆイメージできないこと。そうしたことと、「民主教育」運動自体が、学校の共同性を熱く希求してきたこととは重なっていましょう。一方、国家、教育行政のほうは、一面で木田宏のような冷徹な判断で学校を機能集団として近代合理的秩序の中でとらえ、その一方で家族や地域といった共同体の管理統制「指導」の出先として、あるいは薄れゆく共同体の代替え疑似共同体として、共同体的機能を学校に要請してくるということをやってきたのではないでしょうか。この後者の側面は「民主教育」運動からある意味で学び、吸収し、それを国家のサブ統治機能に変換してきたことは、解放教育運動から同和教育への歴史をたどれば見やすい所でしょう。 ということは、学校は国家の統治を担う機能集団としての要請と、「共同体」的世界のイメージや機能への要請とを同時に国家から受けてきたわけです。ですから、そのしばしば衝突する要請にはさまれて学校や教員が、そしてなによりも生徒たちがこのダブルバインドの中で、悩みそして逃走へとはしり、学校の性格をますます分かりにくいものにしてきたのではないでしょうか。 国家の教育と現場の要請の狭間で現実の「学校」は現象しているので、その両者を等しく視野に入れないで現状分析することはできないでしょう。そのとき学校を「共同性」あるいは「疑似共同性」としてイメージしてきた現場や教育学そのものを再審にかけなければならないのではないでしょうか。 学校をコミュニティと表現しているからといって、学校を厳密に「共同体」だと考えているわけでもないことは、アメリカにたくさんある「コミュニティ・カレッジ」のことを考えれば自明だと言われてしまうかもしれません。地域(コミュニティ)と密接に関わっている学校という程度の意味であって、学校がコミュニティだというわけでもないのでしょう。 日本でも最近、コミュニティスクールをつくった、という報道を聞きます(7)。 児童の保護者や地域の区長などで作る「学校運営協議会」が学校の年間計画や予算の使い方、教員人事に関して口出しできるもので、それでコミュニティスクールだ、というのですから、コミュニティという文字づらを捕まえて、学校を「共同体」として考えようとしている、というのは言い過ぎかもしれません。 しかしながら、地域のコミュニティから分離された「学校」を、国家の地域「指導」「介入」の機関あるいは、封建的な地域家族を民主的なものに変換させていく近代化の先兵としてイメージした場合の「学校」とは大きく変わっているのは確かでしょう。しかも、地域とかいっても、都市部では決定的にコミュニティは解体されてしまった後に、学校と地域の連携などというスローガンが登場しているのです。 南山城地域という農村部で行われる学校の統廃合は、人口減で衰退する地域の生き残りのために行われるのだという名目で、実は伝統的な地域共同体の解体を推進してしまう、そういう自己矛盾を抱え込んでしまっているように感じられます。 都市部のコミュニティスクール、あるいは「学校協議会」を使って、地域を反映させようという試みも、実は学校に残っている「共同性」を解体し、すでにすっかり「学校化」した地域住民の私的欲望の中に投げ込むことで、国家によるコントロールを円滑にすることができる、という読みではないのでしょうか。 コミュニティへの志向性を掲げることで、失われた共同体を回復するような幻想をふりまき、実は、社会の生命線である共同体を解体し、学校市場社会へと投げ込んで行く過程なのではないのでしょうか。コミュニティ概念の多用によって、私たちは現実に進行している変容を見抜けないようにされてないでしょうか。 ただし、ここは慎重に考えておく必要があります。日本での学校変容を指導する理論がアメリカなどからのコピー理論に支えられているとしても、アジア諸国の学校の現実とは、同一視できないかもしれません。イリッチが学校化を世界的な現象として把握したのにならって、近代学校の終焉を議論するのは間違いかもしれません。 なぜなら、日本の近代学校の実態史は、単に法制的に日本の教育政策でのみ規制され、日本という社会の習慣や道徳などの秩序、あるいは言語使用などに左右されなかったわけではないからです。例えば、生徒が先生をよぶ呼称が、日本社会の秩序感の変容をしっかり反映してきたように、学校は定式に反して、社会に「埋め込まれたまま」その社会の変容とともに変わってきたとも言えるかもしれないからです。そうだとすれば、中国や韓国の学校社会が日本の学校と同じ基準で測られるわけはないのです。 中国や韓国の学校史の知識の全くない私が、予断と推測でそう思っているだけですが、いくつかイメージ的な証拠をあげてみましょう。 私の勤務する学校に中国語の授業が「選択」ではいっています。生徒たちは「授業がわからない」と文句をいいつつ、出席していれば何とかなるだろうと考えていましたが、中国語の先生は中国の人ですから、テストができない生徒は当然「不合格」だと考えます。そういう生徒も何とか「合格」にするという日本の教員の姿勢に中国語の先生はカルチャーショックを感じるのです。日本の学校は中国の学校とは別物と思ったことでしょう。 2つ目は「年報 学校の境界」第3号所収の中島さんの論文「中国における学校の多様化」からです。 今回の調査では、これまで持っていた、「教育の多様化とは最も遠いところにあるのが中国だ」といった先入観が、あっという間に翻されてしまうような状況の一端を見たような気がする。学校の形態だけをとってみれば、日本よりも多様であることは間違いない。それが、日本には多様なありようを許さない規制があるからだとすれば、中国では、少なくともその規制のレベルでは、日本よりも柔軟かつゆるやかであるということを意味している。今回とくに印象深かったこととして、各学校において、それぞれ何かを成し遂げようとする活気が満ちあふれ、教師たちも実に活き活きと積極的であったことを挙げることができるが、それは規制緩和のプラス面での効果と言えそうである。 私学校の設立、授業料の徴収など中国の学校の変容・多様化を、新自由主義が跋扈する日本やアメリカの学校改革と同じ視線で「くくる」のはまちがいではないか、と考えさせられた記述です。日本で中島さんが報告しているような中国の「多様化」が実行されているとしたら、とっくの昔に社会はボロボロになっているかもしれません。中国ではそうでもなさそうなのは、社会の土台が違っている、人びとの倫理観や習慣(たとえば食習慣でも)がまったくちがっているからではないのか、と考えてしまいました。 社会の共同性は、その構成員が共通に抱いている倫理観や習慣に反映されてきます。社会現象としては似たようなものでも、それを出現させ、それを支持する規範意識が別物であれば、現象の判断は別のものになりましょう。 近代学校の考察は「日本」という枠内で収まりそうもないのです。しかも、学校現象は世界中にたりよったりだ、という前提を私たちは疑ってみる必要があるのですから、これはとても手に負えそうもない課題なのです。 近代学校はすでに終わっていて、いま現象している学校状況は私たち「近代学校」を経由してきた者たちがイメージしている学校とは別物なのではないのか。そういう疑いがひとつ。それからもう一つは近代学校は崩壊過程(もしくは脱皮過程)にあって、近い将来に出現してくる学校は、私たちが経験してきた「近代学校」とは別物になるであろう、という予感。この二つを考えてみようとしているわけです。 私たちが「学校」というとき、各自の学校経験からイメージしています。その意味で現実の(とりわけ現在の多様な)学校現象とはずれていましょう。「学校」は〈制度〉や実態ばかりでなく「幻想」なのです。この学校幻想が「そうそう、あのころは・・・・・」と共通項をくくり出せる時「共同幻想」としてうまく機能することができるのです。同窓会はこれなくして成立しません。創立○○周年で寄付金がどの程度あつまるかで共同幻想の盛衰をはかれるかもしれません。 ナショナリズムが共同幻想であることは確実ですが、共同幻想だからといって、真実でないといってみてもあまり意味はないし、それが機能しているのであれば、その機能や効果を考察しなければならないように、学校が共同幻想だといっても、その価値をそれでおとしめようとするものではないことは断っておきましょう。もちろん学校は〈制度〉ですから実態をもちます。しかし、私たちはこの〈制度〉を共同幻想の眼鏡で観察しています。〈制度〉と共同幻想との距離やズレの問題にも注目しなければなりませんが、学校の〈制度〉ではなく「共同幻想」が決定的に消滅しつつあることを、次の文章が明かしています。 私の報告「逆ディスクーリング社会」(8)への感想として若い山口慶子さんが書かれた文章です。 今回の北爪さんの発表は、理屈としてはわかるが、あまり自分に近づけることができないものであった。私の想像力不足といえばそれまでなのだが、なぜそのようなことが起きるのか、考えてみる。一つ目。私は学校というものを語る時、自分自身の経験からはなれることが出来ない。目の前にいる相手に対し、学校に対しての意見を伝える時に、必ず私自身の過去を重ね、それがあたかも相手との共通の経験であり、共通の認識を持っているかのような錯覚が起こしてしまうのだ。それが、私だけではなく、誰の身にも起こっているのではなかろうか。つまり、北爪さんが『学校』と言う。その瞬間私は自分自身の経験上に存在する学校??6つもしくは7つの学校??を思い出す。しかし北爪さんの言う『学校』と上手く重ならない。違和感を覚える。どのような『学校』なのか。想像してみる。重ならない。二つ目。私は学校というものを、自分がアルバイトというものを考えるのと同じように捉えている。社会と学校を、分けていない。アルバイトというのは、最低限のルールをこなし、会社側に支障がなければよい。仕事内容により、多少の向き不向きはあるが、どんなに長く勤めていようとも、人間関係がどうであろうとも、そのアルバイトの代わりの作業が出来る人間は必ず存在する。何を感じ、どのような視点と目的で働いていようとも、何を得ようとも(あるいは失う)、会社側に知らせる必要性は全くない。会社側もそれを求めていない。〉([Mgffe2] メール版解放教育24号) 私がどんなに学校を「理論的に」考察しようとしていても、自らの学校経験を離脱したところで考えることはできない、ということを山口さんの議論はあかしています。私たちは同世代で学校を議論することが多いでしょう。そこに若い世代の人が入っていたとしても、多くの場合、上の世代の学校幻想を若い世代は異和感を覚えつつ「そういうものか」と、その学校幻想をしだいに共有してくるのです。山口さんはそういう幻想の共有過程のしくみをバラしているわけです。 同時に、すでに「学校」はこれまでもってきた幻想の「共同」ができなくなっているということを山口さんは証言しているのです。そうであってみれば、学校はすでにしてその「共同幻想」の部分から、すでに終わりを迎えていることになりましょう。 私たちの世代、「近代学校」を「卒業」した古い世代が、その学校経験を下敷きにして、多少は懐古趣味的に、半分は現在の学校現象を批判的に論じたとしても、すでにして語られる「共同学校」は、どこにも存在しないのです。もちろん、私は〈制度〉としての学校を語る時それは存在したことがないし、現に存在していない、と言っているのではありません。教育史は書かれるべきだし、いまの教育制度改革には批判を加える必要があります。その営為が無駄だと言っているのではもちろんありません。しかし、それを記述する時に、私たちは経験の中の学校幻想を下敷きに語ってこなかったでしょうか。 南京大虐殺などの天皇の軍隊の犯罪を否定する歴史修正主義者への批判の中心は、歴史の改竄にあることは言うを待ちませんが、そういう歴史修正主義は、言って見れば「左翼的歴史観」の共同幻想の理論的衰退状況のなかで出現しているのです。だとすれば「左翼的歴史観」の「共同幻想」の根っこを再検討する必要があるのです。「事実」は「事実」だ、と言っているだけでは「歴史主義」として批判されましょう。 それと同様に、民主教育の流れのなかの「学校共同幻想」の再検討の作業の必要性をも要請してきましょう。私たちの世代は「学校のモノ」をイメージすることができます。共同幻想はモノに憑いて、私たちの記憶の層に沈殿します。ですが、若い世代に「学校のモノをあげてみてください」と問うてみて、どんなモノがあがってくるでしょう。そしてそこには「学校で使っていたもの、学校にあったもの」以上のなにか、共同の幻想がついて回っているでしょうか。「学校のモノ語り」の続編は、もしかしたら「近代学校の終わり」の検証になるかもしれません。 教育機会の拡大は社会の平等化への道である。だから教育は社会の平等化を促進するのだ、という学校教育の考え方は、すでにボールズとギンタスによって実証的に否定されていました。学校は社会の不平等を再生産する機能を担っている。労働力の階層的再生産に学校は貢献している、というよく知られた議論です(9)。 私は、社会の平等化の啓蒙装置として近代学校があり、それが終わりつつある、という予測をしようとしているのではなく、上記のような労働力の階層的生産装置としての近代学校の「終わり」を見ようとしているのです。もちろん、そのことは学校が理念としての平等化装置に、その機能が近づいている、ということを「感じている」わけでもありません。資本制社会の労働力生産装置としての学校の機能が劣化し、そういう機能を学校に割り振ることは意味がなくなるというか、機能しなくなってくるのではないのか、ということです。効率良く労働力の階層的生産をし、なおかつそこで育った労働者たちがそれぞれの階層にみあった適性・能力を身に付け、同時にそれを自己肯定して社会の生産機構に積極的に貢献する。そういう労働者をしっかり学校は育てなくなってきた。だから教育改革が必要なのだ、教育を平等主義者が効率の悪いものにしてしまったから、それを改革するのだ、というのが今日の「教育改革」論者です。そういう意味では「教育改革」を叫んでいる人たちは、おそらく労働力再生産装置としての近代学校の危機を「賢明にも」感じ取っているのです。 これにたいして、新自由主義的な教育改革に反対する人たちは、学校教育の平等化機能を頭の隅で保持しています。たとえば国立大学協会は国立大学のほうが私学よりも低所得者の子弟がより多く学んでいる、なんてことをわざわざ統計まで出していっています(10)。年間で授業料が50万円以上もする国立大学が教育の機会を「平等」に提供しているなどと言えるのは私学との比較においてのみなのにです。近代学校の「終わり」を感じ取れないのは、皮肉にも進歩的な教育者たちなのです。 しかし近代学校が社会の平等化装置として全く機能してこなかったのかというと、歴史的なある時点で、経済の発展と歩みを同じくしてそれは機能していた、ということは言えるのではないでしょうか。だからこそ、進歩派は、その過去のイメージから自由になれないのです。たとえば次のような中国の現在の「理論」をかつての日本に重ねられそうだからです。 ノーベル賞経済学賞受賞者のジェームズ・ヘックマン教授などの学者らの最近の研究によると、中国では、教育水準が家庭の所得水準を決定する最も重要な因素の一つとなっている。一人の農村出身の大学生がその一家を貧しい状態から脱出させることができるのだ。しかし、非常に残念なことに、最近の教育体制改革をめぐる論争では、学費の上昇が貧しい人々にもたらした負担だけが注目を集めてしまい、大学生の数の増加が一般の人々にもたらした教育機会の拡大は無視された。1978年、大学の新入生定員数は全国で40万人しかいなかったが、2005年になると、この数字は504万人になり、11倍強になった。低所得階層にとって、学費が安いが入学の機会がないよりも、学費が高くても入学の機会があったほうがよいと私は信じる。(11) ところで、ボールズは、伝統的な社会の社会的分業の再生産過程のほうが、近代のそれよりも強固であり(家業はなにせ世襲でしょうから)、近代の学校教育の労働力の再生産はそれにくらべて弱いのだということを示唆しています。 こうして、階級構造内のそれぞれの位置に子供を振り分けるためのメカニズムとして、学校教育の重要性が高まるにつれて、階級構造そのものを正統化する上で、それが果たす役割も大きくなっていった。しかし同時に学校教育は、上流階級の地位と特権の世襲を可能にしてきた過去の単純な過程をくつがえすものであった。いいかえれば、学校教育は、社会的分業の再生産に奉仕してきた諸過程を、しだいに弱体化させていったのである。(12) つまり、昔は家庭や地域で、そこで生き働く子孫たちをそれぞれの働き手に育てる「諸過程」があったが、近代学校はそうして労働力の再生産の機能を吸収したのに、学校の労働力再生産装置としての機能は昔ほど確固たるものではなくなっている、ということでしょう。学校をとおして「学歴年数」やそこでの「成績」に応じて、社会階層を上昇することができる産業社会の定常的存在が、近代学校がそれなりに機能する前提なのです。ところが高校全入から大学まで希望すれば入れる「平等社会」の実現は、社会階層の上昇装置としての学校教育を機能不全にしていきます。 第2回「高校生と保護者の進路に関する意識調査」(2005)には「「働くことへの気がかり」は高校生の71%があると回答。前回43%から大幅増」とし、「将来働くことについて気がかりがあるという高校生は7割を超え、対象学年が3年から2年へと下がったにもかかわらず激増。とくに増加が著しいのは、普通科と大学・短大進学希望者だった。」とまとめています。(13) 社会階層の上昇どころか、親の世代と同様な生活を保障できる仕事につけるかどうか多くの高校生は不安に思っています。これはまさに労働力の再生産装置としての近代学校が「終わった」ことを意味していないでしょうか。 経済学からの学校教育批判論を日本の教育界はどう受け止めてきたのでしょうか。こういう議論をはなから受け入れられない体質を日本の教育者たちは持ってきてしまっています。そのことが教育学の「理論的足場がぐずぐずになってしまった」根源だと広田照幸氏が指摘していました。 政治的な色合いを表面から消し、経済と教育との関わりを拒否する形で、教育学の中心的な理論は組み立てられることになったのである。教育学固有の理論から基盤とする価値を導出し、そこから現実の教育政策や教育制度を批判する、というやりかたである。(14) こういう普遍主義的足場に固執する教員や教育学に、その教育的「価値」の生成原理そのものに疑問を投げかけたイリイチの批判が入るわけはなかったのです。こうした体質に私たちは「教育解放研究会」の時代から疑問を提示してきたつもりです。現場の教員が、例えばボールズとギンタスの議論を読むと、そんなこと言われても目の前の生徒をどうしたらいいのか、実践的に示してもらわないと何もできない、と応答するならまだしも、労働力の階層的な再生産に手を貸している俺達は犯罪的なのか、などと反発するか、そんな理論は現場実践をさぼる口実になるだけだ、などと居直りさえしたわけです。だれしも自らの労働が、社会の成員の幸福のために役に立っているのだ、という確信もしくは幻想であってもそういう思いにつながるものであって欲しいと願っていましょう。教員の場合は、この思い入れが、目の前に子どもたちがいるだけに激しいのです。「実践報告」はこの思い入れの激しさを語って余す所がありません。教育学者たちはこの集団の思い入れに抵抗できなかったのです。 普遍主義的な教育者・教育学者の体質は、その時々に流行の教育思潮やテーマを身に付けて、「実践」の理論的支えにするという流れを形作ってきています。これが日本の教育思想史として記述されることでしょう。よく考えてみれば、例えば伝統的な社会の中で、あるいは今日においても「教育」をそれとは自覚しないまでもおこなってきたのは家庭や地域なのです。いまや、その家庭や地域は相当程度までに学校化されてしまいましたが、父や母が子育ての「実践報告」を書こうという意志などはないでしょうし、毎日の共同性が1年や2年先にどういう「成果」を得られるかなどと「計画」を立てる人もいないでしょう。ましてや「家訓」などで普遍主義的な理想を掲げてそれを本気で貫くのが家庭だ、などと思っている人もいないでしょう。おまけに家族はやがて親の老いや死、子どもの自立によって解消していくという宿命の中にあるわけですから、「創立100周年」などという発想とも無縁です。家族や地域の「再生産」は、普遍主義からはるかに遠く、人と人が直接間接に向き合う共同の中でそれぞれに相対性を植え付けながら流れていく、見えにくい、計画しきれない「教育」だったのです。そうであるから、例えば、おまえたちの家庭は労働力の再生産の担い、階級社会を再生産しているだけだ、などと言われたとしても、そのように計画などしていないわけでしょうから、反発などしようがないのです。ところが学校は、意図され計画され「理念」をもって運営されていると公言し、その「成果」も目に見えると考えているわけですから、反発は当然で、自己の存立に関わっていると思ってしまうのです。 しかしながら、学校教育でさえ、教師や教育学者が主観的に思うほど厳密なものではないのです。それを確固ととした目的理念をもった〈制度〉であって、それ以外ではないと想定してきた、その思い入れの激しさが、日本の近代学校の終わりを用意してしまったように私には思えるのです。 近代学校がその教育思想的「純化」をますます高め、そのことでかえって実態が「教育理念」裏切り「近代の教育思想」を終わりに導いている例をあげておきましょう。 東京都立中学校長会が『私立中学校から都内公立中学校への転入学生徒数調査結果の概要について』という調査発表をしています。(15) これによると、 私立中学から都内公立中学校への転入者数の合計 (1)平成14年度259名 (2)平成15年度331名 (3)平成16年度359名 (平成16年12月10日現在) で年々増加しています。東京都内の中学生のうち4人に一人は私立中学生です。私立中学はその経営的観点から、学校の評判を落とすような生徒はさっさと退学させる傾向があると公立中学校長会は批判します。中学は義務教育ですから、公立はどんな生徒でも受け入れざるをえません。それを見越して私立中学は「学校」の純化を図れるわけです。公立はますます評判を落とし、私学に希望者が集まりますから、私立中学の退学者出しはダブル効果なわけです。 文部科学省や「識者」は「私学にまなべ」経営感覚で学校経営をやれ、教員の評価も私学のようにやれ、というわけです。公立中学の校長は下記のような批判をしたくなるのは当然でしょう。 ○転入学に関する主な事例(抜粋) ・私立中学校における退学者に何も指導せず退学を宣告している。 ・3年生2学期末や3学期に公立中学校に転入させる ・一方的な指導により生徒に精神的圧迫を与え退学に追い込むことがある。 大阪の私学の中高一貫教育校や公立の「進学校」化をめざす学校が、どういうふうに生徒を振るい落としていっているか。そのことによって「成長」「評価」されていくシステムに、校区の拡大・自由化が貢献していることは言うまでもありません。(16) 学校を個別に観察してどういうシステムの学校がいいのか、ということをいろいろ考えるだけではダメです。いろいろな種類の学校を作れば作るほど、学校システム全体として、教育の普遍的理念・理想自体は延命していくのです。近代学校はその普遍主義的理念の生き残りのために、自らの終わりの道を歩んでいくのです。 木造校舎の写真集を眺めていると、自分が小学校の時に通っていた校舎のイメージを想起しようとします。ところが描けないのです。故郷を離れてしばらくしてから小学校に立ち寄った時、そこには見慣れない鉄筋の校舎がありました。大きいなーとおもった銀杏の木はそれほど大きくはなかったですが、昔の位置にありました。その銀杏の向こうにある校舎は見慣れない建物でした。そのいくらかショックな印象ばかりがせり上がってくるだけで、それ以前の木造校舎のイメージは浮かび上がってきません。 にもかかわらず、私は木造校舎の写真を見ていると、「なつかしい」と思ってしまうのはなぜなのでしょうか。校舎だけではありません、天板が上にあけられる机が、博物館になった旧校舎などに陳列されていたりもします。その机そのものは、もちろん私が小学校の時に使っていたものではありません。なのに「なつかしさ」の感情がわいてくるのはなぜなのでしょう。 たとえば、現在の学校にある机、あるいは個性的で機能的で美しい校舎から巣立っていった子どもたちは、何十年か後になって、故郷の校舎や机を見て「なつかしい」と思うのでしょうか。これはわかりませんが、少なくとも、自分の通った学校とは違う校舎の写真をみても「なつかしい」とは思わないのではないでしょうか。なぜなら、個性的な校舎は、他の個性的な校舎と共有するアウラを持たないでしょうから。 「学校のモノ」というカテゴリーは、個別の学校に存在してきたモノたちに、その機能や形態とはべつに共通のアウラが存在する、という前提をもっていましょう。別の言い方でいえば、モノはその「現働的イメージ」だけで成り立っているのではなく、「潜在的イメージ」に支えられるという二重性のなかで生きている(17)のだとすれば、モノは私たちの身体のなかに潜在的イメージとして組み込まれているのだろうと思います。ですから「なつかしさ」は思考の対象であることをのがれて、体験的確信として学校経験の中で大手を振って自己主張することにもなりましょう。教育再生会議での個人的学校経験の寄せ集めの大声は、教育学などの学知の排除として機能したりもします。これらの個別の「潜在的イメージ」の自己顕示は、現実の学校が「現動的イメージ」だけで作動しているのと見事なミスマッチを演じているのです。 可視的なモノについて、私たちが語ろうとするとき、たとえば机なら、机にまつわる個別の体験を集積したり、「机」一般の形態や機能を並べて考察したりしましょう。しかしそこで析出されるのは、私が使ってきた「この机」のことではないし、あなたが使っていた「あの机」でもありません。ですが、映像化された机は個有名と結びついていないことはまれです。 映画監督のなかには哲学者以上の思考者がいたりします。彼らは可視的なものをその「現動的イメージ」だけではなく「潜在的イメージ」と不可分なものとしてとらえ、思考しようとします。思考はアリストテレス以来、カテゴライズする癖を持ってきましたから、この生のモノを思考することができないという難点があります(18)。私たちが「学校のモノ」を俎上に載せようとする時、学校のモノをその機能や形態で分類したり、その歴史的変遷をたどってみるという試みもありえますが、その作業はモノとともに生きている生の出来事のなかで、その「潜在的イメージ」がどのように私たちの身体的ふるまいにまでからまれているのか、さらにはイデオロギー的「言説」のなかにひそかにそれが埋め込まれたりしている、そういうとらえにくい姿をとらえるものでなければならないだろうと思います。たとえて言えば、私たちは「学校のモノ」という映画を撮影するように思考し、記述しなければならないのだろうと思います。 中島さんの情報で南山城の旧大河原小の跡地に「風の学舎」ができるという記事が下記にあります(19)。この記事の見出しは「廃校を活用、地域の学びやに南山城村 大学、企業から講師招き」です。表題も写真も「廃校活用」というカテゴリーのなかで整理されていましょう。ですが「南山城村セカンドスクール運営委員会」とか「風の学舎」という名称の中に、もしかしたら、命名者の意図をこえて、学校の潜在的イメージの自己主張があるのかもしれません。それを引き出したのは間違いなく「校舎」というモノ、地域の人たちの思いの籠った大河原小学校という「モノ」の「現動的イメージ」だったでしょう。「風の学舎」が都会の塾のコピーとなっていくのか、なっていくとしても、そこにどんな潜在的イメージが派生していくのか、あるいはまったく異なった、近代学校とは別物の学校を生み出すのか、そういう可能性としての「校舎」をそこから読み取るのは容易ではないと思います。 題名の「近代学校の終わり」から、この雑文を近代学校批判ととらえ、そんなものはもう終わっていますよ、とか、やがて終焉を迎えますよ、という学校否定論と受け取られたかもしれませんので、ちょっと自己注釈を。 白と黒の中間に無数のグラデーションを描いてみましょう。これがグラデーションなのだと了解できるのは、私たちが「白」と「黒」という状態を知っているからです。仮に私たちが「黒」という状態を全く知らなかったとします。そうすると「白」という純粋な状態が濁ってくる、それも濁りがきつくなっていく状態にであったときに、私たちは「白」の混乱とは認識できても、やがて「黒」へと向かっていく移行過程などとは考えません。なぜなら「黒」という状態を経験したことがないからです。私たちは「近代学校」を経験していますが、それがどういう方向に向かっているのか認識できないのです。なぜなら明確な「黒」イメージを持っていないからです。「白い」近代学校との偏差でしか現実をとらえられない状態が現状だと私は考えています。果たしてこの先に出現するかもしれない「黒」状態が、悪なのか善なのか、ばら色なのか暗黒なのか、見えていないものを私たちは価値判断できません。 どこへ向かっているのかわからないとき、私たちは遠い過去や近い過去、そして現在をリストアップして補助線を引き、どこを目指しているのか、認識者の「経験」を時には利用したり、そのバイアスを差し引いたりしながら、向かっている方角に目を凝らします。このとき、続いていると思われている状態のなかに「仮に」断絶線を入れてみます。そのことでいままで見えてこなかったものが見えてくることがありましょう。「近代学校」はもしかしたら終わっているかもしれない、と仮定してみたら何が見えてくるのか。たとえばそういう実験をしてみたらどうでしょうか、ということで雑文を書いてきたわけです。 フーコーが『言葉と物』や『監獄の誕生』でやってみせた仕事は、現在進行形の今ではなく、18世紀、19世紀というような相当な昔に断絶線を入れて見せたのですが、私たちは、巻き込まれている今のさなかに断絶線を入れてみようというわけです。 『今昔物語集』、とくに本朝世俗部は読んでいると、とても面白い話がたくさん載っています。大金持ちの乞食とか盗賊のはなしなど古代末期の混乱のなかで生きている人々の具体的な姿が描かれています。本来は「ぼさま」などの漂白の宗教者が仏教因果論などを「語り」歩いていた、そういうのが元にあるのだと思いますが、たとえば本朝付仏法の「讃岐の国の源太夫」の往生伝など、仏教思想の普及意図をはみ出しさえする迫力をもっていました。『平家物語』の固有名とその具体的状況へのこだわりは、戦闘に随伴した念仏僧たちのリアリズム精神に負っていましょう。古代末期の世相を仏教者たちは、宗教的理念から慨嘆していただけではなく、個別の物語をリアルに語ることに精神を集中していたように思います。 「物語」というと、私たちは自己完結的な理念を下敷きにした「つくりばなし」というイメージをもち、大きな物語=イデオロギーの「終焉」以降、物語は終わった、というとらえ方が流行し、そのイメージにとらわれています。「もの」というのは物質に置き換えられるようなものではなくて、「もののあわれ」「もののけ」「ものぐるおし」「ものおもい」などあげれば切りがないほど「物」は、人が生きてある「出来事」と不可分なのでした。これを「モノ」と表記し、物理的な「物」に接近させて「物語」不在の現在に小さな物語で賦活をはかるという戦略はありえる戦略ではありました。しかしながら、『今昔物語集』にもたくさんの物が登場し、それが物語の中で明確なイメージを形成する、そういう卓抜なルポルタージュ文学ともいえるリアリズムを凌駕しえたわけではありません。庶民のなかで生きていた古代?中世の漂白の僧侶たちは、各地の人々のさまざまな生活をリアルに見つめてきました。仏教思想を上からかぶせてさまざまな生を整理してきたわけではないのです。そうでなければ中世仏教の興隆はあり得なかったのです。 学校の「モノ語り」から、いわば「学校今昔物語」へと軌道修正をすることが必要なのではないでしょうか。それは学校のイデオロギーの再構築ではなく、たくさんの悲劇喜劇笑話のなかから、未来を構築する土台をつくるための作業になるだろうと思います。『今昔物語集」は天竺、震旦、本朝と、インド・中国・日本の「物語」を集成しています。いわば当時の「世界」を視野に入れているのです。日本学校今昔物語にとどまらない『近代学校今昔物語集』まで射程に入れないと、『今昔物語集』に追いつくことはできない、ということになりましょう。 注 (1)「年報 教育の境界 第4号」所収「逆ディスクーリング社会」 (2)『「もの」の詩学』(岩波書店 1984 p.80) (3)http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070426k0000m010157000c.html (4)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/007/index.htm#toushin (5)『学校という〈制度〉』1999 P.16 (6)『学校という〈制度〉』 P.130 (7)http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/primary/news/20070510ddlk41040002000c.html (コミュニティスクール:佐賀・赤松小、県内初の指定 保護者・地域一体で運営/佐賀) (8)http://nanbook.com/recent.php#1 (9)『アメリカ資本主義と学校教育』1986-7 岩波書店 (10)http://www.kokudaikyo.gr.jp/active/txt6-1/h14_5/index.html (11)「経済観察報2006年3月11日」北京大学光華管理学院教授 張維迎 http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/060908-1kaikaku.htm (12)『教育と社会変動』1980 東京大学出版会 所収「教育の不平等と社会的分業の再生産」 (13)http://shingakunet.com/career-g/data/data/20060120_report01.pdf (14)「教育学の混迷」『思想』2007.3 (15)直接の資料が見つからないので下記は間接です。 http://blog.goo.ne.jp/higasioka-soudan/m/200605 (16)http://orehaunngaii.at.webry.info/ (17)ドゥルーズ『シネマ2』 (18)丹生谷貴志「死者の汚辱」『現代思想』1995年10月臨時増刊号「ゴダールの神話」) (19)http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007060700190&genre=F1&area=K20&mp= 2 学校今昔物語 体重計は昔は、学校と銭湯とお医者さんくらいにしかなかったものですが、近年では各家庭に小型の体重計があって、つねに家族の肥満を監視しています。学校の身体計測は1年に1回ですから、これはもう個人の健康管理に資するなどというものではなくて、統計をとるためにだけあるようなものでしょう。そういわれないように、学校保健統計調査報告書では性別、年齢別の身長と体重の基準値、平均値、標準偏差などをだして肥満の早期発見をすべきだ、と「学校保健会」などでは啓蒙に努めています(1)。 近代日本の教育では身体検査が制度的に文部省によって確立するのは明治30年でした。このときの趣旨は、生徒の身長や体重の統計をとることで子どもの健康に資するように、学校の環境を改善するというものだったということです。当時の「学校衛生学」の研究事項は次のようなものだったといいます。 当時考えられていた学校衛生学の研究事項を探ることにする。この論文で列挙されている事項を順にあげると,1.学校位置及其構造,2.机椅子ノ制作方,3.書冊文字ノ大小方,4.採温法,5.採光法,6.通気法,7.授業方法及時間ノ長短,8.運動及体操,9.品行即徳育, 10.伝染病予防となる。三宅によれば[三宅秀「教育ト衛生トノ関係」『大日本教育会雑誌』第13号],「凡そ学校に於て衛生上に注意せさるときは即ち学校病と称する疾病を醸生し」,近視,背骨彎曲,衰弱,頭痛,神経過敏症など前述の「学校病ト称スル疾病」が発生していた。すなわち,日本における学校制度の確立に向け,校舎の建築方法や机・椅子の大きさなど,細部にわたる調整が行き届いていない段階においては,教育における理念的な領域における議論と同時に,校舎や校具など物理的な領域,つまり環境面での調整が今後なされなければならず,その分野での研究を担うものとされたのが当時の学校衛生学なのであった。(2) 身体検査の目的は学校の施設環境が適切であるかどうかの測定、改善のためだったのです。それが大正、昭和の改訂をへて「国民」育成をめざすための、子どもの身体の個別管理に向かっていきます。大正期には検査の結果を本人並びに家族に知らせ、その改善努力を促すようになる、と上記論文にあります。この方向は現在でも家庭への連絡として生きていましょう。生徒の「心のもんだい」まで周到に気を配らないと学校の責任にされる時代は、ここから始まっているかもしれません。しかし、その一方で明治の問題意識の中にあった「学校病」というとらえ方で、生徒の身体計測統計を見ることはなくなっていましょう。生徒たちのさまざまな精神的神経的愁訴は、学校制度が問題なのではなく、その生徒の「心の問題」なのだから、教師はその「ケア」に心がけろ、というわけです。近代学校の創設期のほうが、教育行政も謙虚だったわけです。問題を個人の身体や「心」に集約してしまう伝統は、いまや家庭に体重計、体脂肪計を備えさせ、肥満の恐怖におびさせ、極端な「やせ美人」を育成しています。甲種合格の兵士、銃後の守りを固める兵士を何人も生める女性をつくる「初期」いや「中期」の学校身体検査の目標は、国民の育成を乗り越えて、個人の精神を自己管理する(しすぎる)個人を作り出してしまったというべきではないでしょうか。 保育所や幼稚園、それに小学校に子どもを通わせている親たち、そして先生たちが毎日書いてきた文書が「連絡帳」です。子どもが大きくなるとその連絡帳もどこかへ行ってしまって残っていないのが通例でしょう。考えてみれば「連絡帳」ほど学校や家庭での子どもたちの姿を忠実に記録したものはないでしょう。子ども一人ひとり違っているわけです。しかも連絡帳はたぶん長い歴史を持っているハズです。戦前からあったのでしょうか。戦後民主教育の中で「連絡帳」が活躍したことは確かなことです(3)。 この「連絡帳」の歴史的変遷をもし調べられたら、学校の「昔」と「今」の物語が明確に浮かび上がってくるのではないかと夢想しています。ところが、いまや個人情報保護云々でありますから、個人情報満載の連絡帳など参照できません。そればかりか、保育所の保育士たちは、記録に残ることもあって、なんでも書くということが必ずしもできないわけです。そうかといって必要なことはちゃんと書かないと何の役にも立ちません(4)。 小学校でも市販の「連絡帳」があるくらいですから、家庭と保護者の間でのやり取りは習慣化していましょう。中学校ではどうなのでしょうか? 保育所でも連絡帳などない、というところもあるし、塾でも綿密な連絡帳で家庭での学習をきっちり要求するところもあり、様々なのでわかりませんが、中学校ではおおむね個別の連絡帳はあまりないのではないでしょうか。さいたま市の小学校と中学校に新しく先生になった人向けの初任者研修テキストは200頁にもおよぶ膨大なもので、そこには連絡帳をしっかり書くように要求していますから、ここでは中学校でも連絡帳を使っているのかもしれません(5)。 いまや連絡帳は携帯からネット掲示板、メール配信に取って代わっている所もあります。欠席した子どもには電話以外には連絡方法はないですからこの電子連絡帳というのは、緊急連絡網としても広がってくるかもしれません(6)。 連絡帳に書かれることはいうまでもなく「書きことば」です。子どもが今日、保育所で午睡をどれくらいとったか、給食は残したのか、排便はどうだったか、といったような事項は誤解の生まれようはありません。しかし子どもの様子ということになると、家庭でも父が書くのと母が書くのとでも違い、保育士によっても観点が違ってきますし、子どもも4歳児などにもなれば、状況や相手によって「ふるまい」を使い分けましょう。 若い男の保育士さんがネット上で書いていたことですが、今まではいはいしていた子どもが始めて立って歩けるようになったことを、連絡帳に自分は書かない、なぜならそういう感動的なことは、親に体験してもらいたいからだ、と。でもベテランの保育士さんは一日6時間とか8時間とか子どもとつきあっていると、そういううれしいことを「連絡帳」には書かないとしても、迎えに来た保護者に話して一緒に喜びたい、と言います。書かれた記録に残されているのは、保育所や学校という場で起きているすべてではありません。家庭や保育所・学校での子どもたちの生活の「切り取り方」であり、家庭と保育所・学校との関係の表象であるでしょう。そこで私たちが読み取れるのは、「実態」というより家庭・保育所・学校を人びとがどのようにイメージしてきたのか、その関係をどのように考えてきたのか、ということだろうと思います。無数の物語の「語り方」が「連絡帳」にはこもっているハズなのですが、これらをどうして参照できるのか難しいです。 ということは、私たちが普遍の物語を語ろうとすれば、その「語りうること」は、ほんのわずかな部分でしかないのかもしれません。そういう意味での「学校今昔物語」ではないとしても、歴史の中で忘れられていく無数の「断片」の拾い集めは容易なことではないようです。 『学校のモノ語り』(東方出版 2000)の中に「弁当」という小文があります。これを書いている中島勝住氏は、小学校時代にあまり給食を経験していないこともあるのでしょうか「冬、冷たくなった弁当を温める保温庫のようなものがあった。入れる場所によっては触れないほど熱くなるので、毎朝の場所取りは真剣そのものであった。」とお弁当にたいする愛着を語っています。そのせいか学校給食に対してはあまり肯定的ではありません。 「一律強制の学校給食は単なる昼食なのではなく、給食指導という教育が行われるべきだという考え方が基にある。弁当との違いはそこにある。しかし今や、たとえジャンクフードであっても、食の嗜好の多様性が生徒に対しても尊重されるべきであることは論をまたない。そんな中での給食指導が、次第に意義も現実味もなくなってきたのは必然であろう。ならば、弁当の偉大なる復活があるのだろうか。そのためには、弁当も含めた昼食の多様性を可能にする、そんな条件を学校の中にできる限り備えることが必須だ。大学では、学生食堂は経営として採算がとれるらしい。」 ところが、これを大学生に読んで感想を聞いた記録が『学校のモノと境界』(NAN工房 2001年)にのっています。簡単に言えば、給食にたいする否定的なこの筆者の意見に反対の意見がかなりあったようなのです。これはどうしてなのでしょうか。ここに私は「近代学校」の強固な生成原理をみるものです。ネットで給食と打ち込んで調べてみると、学校給食についての思い入れの大きさにびっくりします。 「給食の思い出」というサイト(7)には、たくさんの人たちの学校給食への懐かしさの感情があふれています。おそらく「学校の思い出」のなかでもっとも強力な思い出は「給食」ではないかと思われるほどです。中には、給食で出されたものを全部食べさせようという「指導」で悲しい思いをした体験も語られてはいます。 私は居残り組ではなかったのですが、いつも残って、ポロポロ涙を流してともだちが、給食を食べていたのが今も鮮明に覚えています。掃除の時間も休み時間も5時間目の授業が始まっても…。今だったら、考えられないことみたいです。我が家の子どもたちに聞きました。あっさり、「今は、そんなに無理じいはいないよ。」と言われました。(8) しかし主流は 給食ってやつは学校生活の1大イベントでしたねえ。人気メニューの時は黒板にお代わりOKの時間を書き出したりしてました。特にカレーとか焼きそばのときはすごかった。最初の食事は早く食べてお代わりに命かけてました(笑)あとパンとかを取っておいて帰り道に友達と食べたりとかしたっけ。(9) といったものです。 しかし、この学校給食も生徒数の少ない地方では1980年代ころから、各学校での調理から給食センターでの調理配給がすすみ、1990年代にはこの傾向が都市部でも進行します(10)。 さらに、この給食センターが民間委託へと「民営化」の波が押し寄せてきます(11)。 上記の「弁当」の文にもありましたが、民間の会社でも給食業界への参入はもうからないわけではないようですから(12)、学校給食の民間委託、給食配達の傾向は拡大していくでしょう。 さて、この流れをたどってみると、給食の始まりは明治22年山形県鶴岡町私立忠愛小学校の貧困児童を対象にした給食にまでさかのぼるとしても(13)、圧倒的多数は家庭からの「お弁当」だったわけです。「お弁当」は学校の中に存在を許された数少ない「家族」の領域だった、という指摘もあります(14)。 ところが、学校給食の普及は、家族が子どもたちのために「お弁当」をつくる手間を省き、学校が食事をとおいて子どもたちの中に浸透していくことになりました。その結果「残さず食べる」指導や、法律に基づいて「ミルク」を強制する(15)、というような「学校化」の進行の昂進もあったわけでしょう。 ところが、給食センターの拡がりと給食の民間委託は、いわば強固に築かれた「給食」=「学校」イメージに裂け目を入れることになってくるでしょう。「私が小学校の時、時に地元の有名なケーキやさんのケーキがでたのよ」「わー、いいなー、私はそれより前に卒業したから食べられなかった。残念」「あれは学校の調理員さんがケーキ屋さんと交渉して実現したんだって」というような姉妹の会話が学校給食の思い出となって長年蓄積していき、上述のような、強固な学校給食肯定層を形成したのでしょう。この層は学校というものに何の疑問を持たないで成長してきた子どもたちと重なっていましょう。学校給食は日本では「学校」の強力な味方だったのです。 ところが、学校給食の「食堂」化のなかで、「学校」的なものから給食は離陸していくのではないでしょうか。 ある学校給食の経営者が語っていたように、「食堂のおばちゃん」に生徒たちは先生には言わないであろう話をするのです。もはや民間人の経営する「学校食堂」には「学校」のにおいはしないのかもしれません。給食は「脱学校化」を始めているのでしょう。そう、いってみれば、「民営化」「規制緩和」は、近代の牙城たる「学校」の足下を揺るがし始めているのです。 ときどき腕時計を忘れてしまうことがあります。でも職場や街には時計があふれていますから困ることはそれほどありません。腕時計を買ってもらったのはたしか高校生の頃だったでしょうか。とくに役にたったという記憶はあまりないのですが、大人に近づいたかなー、という気分でした。この頃の高校生は腕時計などあまりしていないかもしれません。携帯電話がその代わりになるからでしょうか。試験の時は教室にある掛け時計で間に合いますからね。腕時計をしている子は、時計の機能が必要というより、アクセサリーのひとつとして身に付けているのでしょう。 腕時計を高校生が持つようになって遅刻が少なくなった、などという相関関係はないでしょう。家に時計があろうがなかろうが、本人が腕時計や携帯電話を持っていようがいまいが、遅刻とはおそらく無関係でしょう。 明治5年の「被仰出書」の翌年に文部省は「小学生徒心得」をだして、「第二条 毎日参校ハ受業時限十分前タルベシ」と時間厳守の通達を出していますが、お客さんがきたら生徒をほったらかして長時間の談笑に及ぶ当時の教員の実情との乖離は相当なものがあったと指摘されています(16)。近代の時間意識を子供たちや教員が身体感覚の中に繰り込むのは、学校で時間厳守を教えつづけても長い時間を要したと考えられます。 以下の引用は「雲は天才である」の書き出しです。ちょっと長いですが。 六月三十日、s─村尋常小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常の如く極めて活気のない懶うげな悲鳴をあげて、──恐らく、此時計までが学校教師の単調なる生活に感化されたのであろう、──午後の三時を報じた。大方今は既四時に近いのであろうか。というのは、田舎の小学校にはよく有勝な奴で、自分が此学校に勤める様になって既に三ヶ月にもなるが未だ嘗て此時計がK停車場の大時計と正確に合って居た例がない、ということである。少なくとも三十分、或時の如きは一時間と二十三分も遅れて居ましたと、土曜日毎に該停車場から、程遠くもあらぬ郷里へ帰省する女教師が云った。これは、校長閣下自身の弁明によると、何分此校の生徒の大多数が農家の子弟であるので、時間の正確を守ろうとすれば、勢い始業時間迄に生徒の集りかねる恐れがあるから、という事であるが、実際は、勤勉なる此辺の農家の朝飯は普通の家庭に比して余程早い。然し同僚の誰一人、敢て此時計の怠慢に対して、職務柄にも似合わず何等匡正の手段を講ずるものはなかった。(17) 内田星美氏によると、クロック(掛時計・置時計)の所有は明治10年には30世帯に1世帯、明治20年にもまだ13世帯に1世帯だったのが明治30年には全世帯の3分の一がクロックを所有していたと推計しています(18)。時計は啄木の時代にはかなり普及していたと考えられますが、時計というモノが示す時間に生活を合わせるかどうかはその普及とは、かなり歴史的ズレがあるようです。 物理的時間(時計)を生活の都合に合わせて使う知恵は、「自分はぎりぎりで遅れる癖があるので時計は五分すすめています」などという使い方に似ています。学校がこういう「おおらかさ」の中にあったのだとすれば、人々を近代的時間に巻き込んでいったのは、むしろ鉄道とか会社などの時間厳守のほうかもしれません。定時制高校の生徒で、よく遅刻する子でも、仕事には遅れることなく行っている、という例も珍しくはありません。 私などが高校生の頃、もちろん先生は遅刻するな、と言っていたのでしょうが、「遅刻は基本的生活習慣の乱れだ、遅刻する子は成績が悪い、などとは言っていなかったし、遅刻をしたからといって、引け目を感じていたことはなかったように覚えています。それは今の高校の生活指導とはちがいます(19)。多くの高校では、校門に先生が立って、遅刻チェックをして遅刻を減らそうとします。しかし、校門当番などで遅刻が減っているかどうか、怪しいところです(20)。 大学の先生あたりも昔は、Akademisches Viertel(アカデーミッシェス・フィアテル)とかいって、講義は15分おくれが当然、という風潮があったわけですから、「学校」が近代の物理的時間強制の元締めだったと断定するわけにはいかないように思います(21)。 1990年におきた兵庫県立神戸高塚高校の校門圧死事件は、遅刻指導の中で起きたのでした。これを起こした教諭が書いた本の題名は(中味は読んでいないので知りませんが「校門を押し、生徒を死に至らしめた元教諭は、……体罰を正当化し、校則を守らせることが教師の務めであるかのように受け取れる内容」と批判されています。)『校門の時計だけが知っている』(1993年 思草社)というものです(22)。 これが、物理的時間を刻む「時計」に依拠して正当化するというものであるとするなら、学校教員にとって「時計」は断じてアクセサリーではないのです。裁判では学校の遅刻指導の安全管理上の過失が指摘されましたが、「管理教育」や「遅刻指導」が問題になったわけではないのです。ですから、現在、1990年代のアメリカで言い出された「ゼロ・トレランス」という厳しい生徒指導方針にならい、文部科学省もこのアメリカの厳罰方式の導入をうかがっています(23)。 学校で「時計」が、物理的時間が再度活性化しつつあるのでしょうか。その一方で、この物理的時間機械としての「時計」の管理対象である子どもたちは、時計をアクセサリーと心得、携帯電話によって、正確な時間の待ち合わせなどを不要としています。教室の中だろうが、劇場だろうが、仲間内で共有する時間、自らの生活時間に合わせて物理的時間の方を改造する、そういう私的時計の所有度を高めていましょう。もしかしたら、学校はこの「私的時計」と近代の時間管理との狭間で、「なんとかやってきた」術を持っているのかもしれないのです。 韓国のドラマ『冬のソナタ』に遅刻指導する先生と、それを逃れて学校の塀を越える主人公たちの姿や、その恐い先生と、卒業していった生徒たちの再開の場面がでてきます。学校物語の典型のような場面ですが、実は遅刻指導というのは生徒たちの「私的時間」とのつきあいなのではないでしょうか。学校協議会で産業界の人が出席し、「学校の時間を産業界の時間にもっと合わせてくれ」と要請したりするのをネットで見かけたりします。「雲は天才である」に登場する校長なら、どんなふうにのらくらと対応するのでしょうか。こういう校長は今やどこにもいないのでしょうが、この「私的時計」とうまくやっていくことは、消えてしまったわけではないだろうと思います。 保育所では「さあ、みんな、お昼寝の時間よー」と大きな声でみんなに呼びかけるのではなく、いわば一人ひとりに「そろそろ眠くなったかな? お昼寝しようね」と声をかける方式になっているということです。勿論、保育所のみならず小学校でもチャイムをできるだけ使わないところが出てきたりしています。これはいわば「私的時計」と物理的時計との「調整」の努力でもあるわけでしょう。 半世紀近くまえ、私が小学生だった頃、新学期が始まってからしばらくして、担任の先生が「家庭訪問」にやってきました。新学期に子どもたちの家庭環境を知るために、日本では家庭訪問が恒例の行事になっていました。いまでも多くの小学校では家庭訪問があるだろうと思います。日本でいつからこういう家庭訪問という慣例がはじまったのでしょうか。国家の代理人たる学校の側から各家庭に足を運んで、というのはどうも日本の国家主義的教育の成立からは考えにくいのですが、どうでしょうか。子どもだけでなくその子どもを通して「国民」を育成するというのなら、わざわざ家庭の事情まで斟酌するはずはないでしょう。 これは半ば想像ですが、家庭訪問というのは、戦前の生活綴方教育などの民間教育運動の中で現場の教師たちが、貧困の中であえぎながら学校に通ってくる子どもたちとその家族たちに直面する中で生まれてきたのではないでしょうか。それを戦後民主教育が引き継いできたのだろうと想像しています(24)。 各府県の学務課長や視学を中央に呼んで、思想善導または思想調査の講習会を開き、それを持ち帰って全県下の校長教頭を集めて伝達講習会を開きました。思想傾向の悪い教師を見つけ出す方法を授かってきた一つに「西瓜戦術」というのがあり、「外は青いが中が赤い」いう意味で、次のような教師は特に思想傾向に注意せよというのです。 (1)子供の教育に熱心で本気でとっくんでいる教師 (2)父兄から支持され、家庭訪問などをよくやる熱心な教師 (3)同僚との付き合いが良く、研究交流などに骨折っている教師 (4)若い女の先生などに親切な教師(25) 「家庭訪問」をほぼ学校の公式行事のように小学校で実施されているような国は少ないのではないでしょうか。韓国映画「我が心のオルガン」(1999年 監督 イ・ヨンジェ 出演イ・ビョンホン チョン・ドヨン)は1960年代の江原道の山里の小学校の日常を丹念にとらえている映画でしたが、学校に来なくなった17歳の小学生ユン・ホンヨン(チョン・ドヨン)の貧しい家に、若い教師カン・スハ(イ・ビョンホン)が訪ねていく場面はありますが、これは特例で、日常的に生徒たちの家に教師が訪問する、ということではないようでした(26)。韓国から日本にきている人に聞くと「先生は先生さまだから、生徒の家に自ら出向くなどということはしない」ということでした。 アメリカなんかは、もちろんありそうもないです。 家庭訪問なんて制度アメリカにはないですし、何よりもプライバシーを盾に、他人の介入を拒むのでいくら熱心な先生がなんとか子どもの生活をと思っても、手が出せないんですよね(27) ところで、現在進行形の「家庭訪問」ですが、アメリカの影響でしょうか、先生はだんだん家庭の中に入り込んで、お茶やお菓子をご馳走になり、ゆっくり親御さんたちとお話して、という状況ではなくなりつつあるようです。まず、お茶などの接待(?)は「お断り」とか、玄関で話して帰るとか、はては家庭訪問を行事としてはやめてしまった小学校とか、ネットで検索してみると、この恒例行事が大きく変容しつつある様子がわかります(28)。 先生も学校でパソコン的事務が多くなって、それに熟達しないといけないし、家庭訪問どころではないのでしょうし、生徒の家に行って「饗応」(?)を受けるのは「教育公務員」としてどうなの、などという意見があったりもすれば、この先生バッシングの風潮の中では「やってられないよ」ということになりかねません。 学級懇談会は保護者のほうが学校に出向いて子どもの話を教師から聞いたりする。なにか子どもが悪さでもしたら、学校の先生に呼びつけられる。これは大昔からあるでしょうが、昨今では「保護者」が学校のほうに出向いて、教育内容や子どもへの教師の働きかけにクレームをつけに来たり、「地域住民」や「市民」が学校の教育方針に文句をつけにきたすることも多くなっていましょう(29)。 いわば、ベクトルが逆転しつつあるのではないでしょうか。「学校(教師)→家庭・地域」から「学校(教師)←家庭・地域」という動向が看取されないでしょうか。「開かれた」学校という点では、実は前者も後者も同じなのですが、現在「開かれた学校」という時のイメージは文部科学省や教育委員会それに学校までが、後者のイメージで使っていましょう。「家庭・地域」がいだく学校イメージはマスコミに大きく依存しています。言い換えれば「家庭・地域」=「マスコミ」=「社会」という等式が成立するとすれば、今や学校は「社会」のなかで、その明確な輪郭やアイデンティティーを失いつつある過程に(その初期段階かもしれませんが)あるのではないでしょうか。 新聞の折り込み広告を丹念に見ている人がいるでしょうか。ものすごい分量です。私などは、たいていはセットになったまま古紙回収のほうへ回してしまいます。買い物をしなければならない時には、近くのスーパーのチラシを見たりはしますが。 学生時代に、このチラシの一面しか印刷していないのを集めてきて、計算用紙とかに使った記憶はあります。それも印刷技術が向上してきて両面刷りになると、使えなくなりました。 現在の学校には、リコーとかリソウの孔版印刷機が入っていて、大量のプリントを短時間で印刷できますから、生徒たちに配布される教科のプリントや連絡用プリントは膨大な数になっています。これらのプリントに目を通したり、整理するだけで結構大変なのではないでしょうか。放課後の教室には配布したプリントが散らかっていることがあります。忘れたのか、遺棄したのか。生徒のなかには、かばんの中に雑然とプリントを押し込んでいる子もいます。 昔は、高性能の孔版印刷機はありませんで、ガリ版というのが教師のプリント作成の道具でした。このガリ版は、1894年に堀井新治郎親子が開発し、またたく間に全国に普及したもので、小学校か中学校の頃でしたか、私も鉄筆でガリガリと先生の学級通信作成のお手伝いをしたように思います。その改良型の謄写輪転機というのもけっこう長いこと使われていました。1970年代は謄写輪転機が主流で、ガリ版はアジビラ作成などで活躍していたと思います。30年くらい前でしょうか、鉄筆ではなくてボールペンで製版する方式と「ファックス原紙」に紙に書いた原稿をうつして製版し、それを印刷にかける方式(これは大変くさい)とが前後して学校の登場してきたと思います。そのあとに製版と印刷を一体化した孔版印刷機が登場してきたと思います。この一体型の孔版印刷機の発明は1984年でしょうか(30)。 たぶん、1980年代後半から、学校の生徒はプリントの山を抱えて登下校するようになりました。学級通信やら文集やらもたくさんのプリントの中の一枚、一冊になっていきます。教科の勉強もいわゆる「プリント学習」が大きな比重を占めるようになりましょう。このことは、たとえば先生が読む教科書を、後について暗唱するとか、先生が話していることを書き留めるには「石版」しかない時代と比べてみると、学習が「聴くこと」から「読むこと」「書くこと」に大きく変わっていったと言えるのではないでしょうか。「聴くこと」はその時、瞬時に精神を集中して聴いていなければ、聴き逃してしまいます。また聴いたことを理解できなければ覚えておくことは困難です。しかし黒板の字はすぐには消えません。それをノートに写して家にもって帰ればいつでも参照できます。プリントには先生の話がわかりやすく書いてあったりしますから、いま、ここで先生の話に集中しなくても、あとで学習すれば、テストに合格できるかもしれません。 「聴く授業」から「読み書きの授業」へという移行は、大量印刷技術に裏付けられなければ成立しなかったでしょう。さらに「教える者」から「学習支援者」への教師の役割変換も、この大量印刷技術なしでは不可能な発想だったでしょう。 昔、ガリ版技術は、生活綴方教育運動をはじめとする民間教育運動ばかりか、民衆運動を支えてきた技術でした(31)。いま、この「発展形態」は、どのように副作用を伴ってきているのでしょうか。「聴く」技術は、大量印刷技術の発達のなかでますます衰えていくのではないだろうかと恐れるのです。 長野県上田市に「さくら国際高等学校」という広域通信制高等学校があります。ここは1996年に廃校になった西塩田小学校の跡地を利用して作られた学校です。学校設置母体は「新教育システム株式会社」というところです。いわゆる「教育特区」に作られた「不登校児童生徒を対象とした新しいタイプの設置による、学習指導要領等の教育課程の基準の特例」「株式会社を学校の設置母体として認める特例」「学校の校地校舎の自己所有要件の緩和」など、文部科学省の「構造改革特区における特例措置」にきっちり当てはめた形で作られた「学校」です(32)。教育特区というと英語などを小学生から教えたりするのが有名ですが、こういうのもあるわけです。ここは東京にサポート校があって、そこと連携をとっているわけです(33)。 先の日曜日、映画「学校の怪談」の舞台にもなったという旧西塩田小学校の「木造校舎」の写真でもとろうかな、とか軽い気持ちで行ってみました。日曜日ですから「さくら国際高等学校」の職員はおらず、校庭では少年サッカーチームが練習をしていました。広い校庭の半分くらいは雑草がおいしげり、真ん中あたりで少年たちは練習をしていました。 写真に写っている校舎は使用していないようで、もう一つの棟と体育館のみ「さくら国際高等学校」で使っているようでした。といっても通信制ですから、スクーリングにくる生徒は年に4回ほどこの校舎に集まるだけなのでしょう。もしかしたら校庭は使わないかもしれません。体育館はきれいに整備され、5月には台湾に修学旅行に行ったようで、ステージには日の丸と台湾の「国旗」が掲げられていました。 それで、ふと思ったのですが、この学校に限らず「広域通信制」などは「校庭」ははじめからない場合があるのではないかと疑っています。これまで「校庭」は学校にとって必須のものだと考えていましたが、どうも法的に義務づけられてはいないようです。山形県立霞城学園高等学校(1部(午前)、2I部(午後)、3部(夜間)の三部からなる単位制の高等学校)は山形駅西口官民複合ビルの5階から9階にあって体育館はあるようですが、校庭はないのです(34)。 これですこし了解できたのが枝川裁判です(35)。 朝鮮学校だから、各種学校だから、東京都はこれを狙い撃ちにしたのでしょうが、校庭を取り上げても「教育法規上」問題ない、ということが東京都を「支援」したのでしょう。 そうだとすると、「校庭」を「学校」イメージと重ね合わせる習性は、何十年か後にはなくなってくるかもしれません。休み時間や昼休みに、校庭に子どもたちがあふれることもなくなり、校庭は「競技場」として特化され、休みの日には地域のスポーツクラブに開放され、学校の部活動も「社会体育」としてアウトソーシングされた後、人びとは、昔、学校には「校庭」という広い「庭」があって、そこで子どもたちが遊び回っていたんだよ、と言い伝えるだけになるかもしれません。 開智学校の開校(1873年)から12年遅れて、松本の里山辺・入山辺二村の力で明治18年に完成した旧山辺学校も、開智学校とおなじ擬洋風建築でしたが、開智学校ほどにかざりは派手でなくて、車寄せの屋根は寺院建築風になっています。ここも先日見学にいったのでいくらかその時の感想をメモしておきます(36)。 まず、開智学校と同じく中廊下式で両側に教場があります。雨が降ってきたので、教場のなかは電気をつけないとかなり暗かったです。当時は電気はないわけですから、自然採光によっていたでしょうから細かい字などは読みにくいでしょう。それで目が悪くならずに勉強できたのは、佐藤秀夫氏の指摘されているように(37)木版印刷の大きな字だったからでしょう。教科書が和紙和装本の大きな字から、洋式活字印刷に変わるのは、佐藤氏によれば1904(明治37)年の国定教科書の登場以降です。もっとも、この国定教科書の文字の大きさも、今日の教科書よりもだいぶ大きかったようです(38)。 ということは、これも佐藤氏の上記の本によると、文部省が近視予防のために教室の照明を意識的に考えるようになったのは1939年頃からだそうですから、自然照明に依拠する限り、文字の大きさはあまり小さくできなかったのではないでしょうか。中廊下式の教室配置の学校建築が、南面北廊下式に変わっていったのはいつからなのでしょうか。文字を小さくするには中廊下方式では北側の教室が暗すぎます。それで中廊下方式はなくなっていったのでしょうか。 教室に照明が導入されても、南面北廊下の教室から中廊下には変わっていきはしなかったのでしょうが、自治体の財政難で一棟中廊下の校舎が一時期作られました。このとき、通風などの悪条件をあげて反対できても、照明があるわけですから、採光不十分とはいえません。さらに、近年の個性的な校舎の登場をみればわかるように、自然光を上手に利用することはあっても、自然光のみに規定された教室配置をしなくてもよくなっているわけです。 そればかりか、学校にエアコンを導入するようになってくると、さらに教室の配置は自由度がましてきます。ですから山形県立霞城学園高等学校のように、学校はビルの一部、という場合も出てくることになります。もしかすると、たとえば夏休みとか冬休みなど季節的要因によって学校カリキュラムが影響される必要がなくなると、それもやがて一部の学校から消えていくかもしれません。生徒からも保護者からも、そして「熱心な」教員からも、またもちろん文部科学省や教育委員会からも出てきそうじゃありませんか。 こうなると、伝統的な「校舎」というものは過去のイメージになってくるでしょう。こうした「校舎」イメージの変容は、どのような過程で進行していった/いくのでしょうか。 旧山辺学校にオルガンが展示されていました(39)。このオルガンが学校に来たときの村をあげてのお祭り騒ぎの記事もそこに添えてありました。このオルガンや顕微鏡などの学校器具など、「文明」の最先端がまっ先に学校に入っていた時代と、テレビとかエアコン、パソコンのように一般の普及の後から学校が追いついていく近年の状況とはちがうと思いますが、学校の中に流行の「モノ」が配置されることによって、教育内容や校舎建築までが少しずつ変容していくことは確認できるだろうと思います。 先の広域通信制高校などは、ネット社会の拡がりをも前提に成立していました。こうなると「校舎」はいわば看板にすぎません。看板に「思い出」が詰まるはずはないのです。学校制度は、社会からの徐々たる「モノ」の侵入の中で、気がつかれないほどのゆっくりしたスピードで、その中味も外観も変わってきているし、これからも変わっていくのではないでしょうか。 同窓会にはほとんど出席したことはないのですが、前から同窓会というつながりを不思議に思っていました。古い学校では学校の敷地内に同窓会館などがあって、ときどき会合などを開いています。同じクラスとか同期の卒業生どうしが卒業後に再開して昔を懐かしむ、というのならわからないでもないのですが、卒業時期がちがって一度も顔を合わせてもいない人たちが、一堂に会する同窓会とはいったいなんだろう、と思っていました。昔は教員の異動などあまりなかったのでしょうから、同期でなくても「どの先生に教わりました?」「ああ、その先生なら私もよくしかられました」などという過去の共有で、そこにいわば世代を超えた一時的アソシエーションができるのだろうか、などと想像していたら、どうやら、そんな軽いものでもないらしいのです。 福岡県立修猷館高校の同窓会を16年にわたって調査研究してきた黄順姫氏の記述を借用します。 同窓会総会(本部の総会には毎年1200名の同窓生が参加するという)での儀式も、彼らを学校的過去へ導く。総会では、「校歌斉唱」「応援歌斉唱」「物故者慰霊黙祷」「校長挨拶」などの儀式が行われる。とくに校歌や応援歌は、彼らが在学時代学校の行事があるたびに団体で歌ったものであり、卒業してから個人の日常生活においては決して歌われることのないものである。それを同窓会の場で歌うことによって、彼らのなかには、過去の学校の空間が蘇ってくる。しかも、年代の差を越えて、同じ歌を会場にいる人たちと一緒に歌うことで、その場にいる人が、すべて同じ学校空間にいるという意識、すなわち、共同体意識、一体感が形成され、再認識されるのである。……彼らは、全員が同じ学校文化を有する共同体という認識に到達し、一体感と親密感の感情状態が形成される。そこには、「同じとみなす」「誤認」が作用するのである。それを、ここでは「同一化原理」と呼ぶことにする。校歌や応援歌を斉唱する儀式は、同窓生に同一化原理を機能させ、学校的記憶共同体を形成させるのである。(40) こうした「学校的記憶共同体」は、学校で機能している教師─生徒、先輩─後輩という非対照的な支配関係にも比される関係とは異質なものだといえるでしょう。現実の権力的関係は「学校的記憶共同体」からみられるといわば脱色されていくのです。 佐藤秀夫氏の『教育の文化史2 学校の文化』から「「先輩」支配の歴史と構造」を参照してみましょう。ここで佐藤秀夫氏は「先輩・後輩」関係は明治のはじめの能力による等級制では年齢がバラバラになるので、年齢による支配関係は成立しなかった。この支配が成立するのは大正末期、学年制の導入普及がすすみ、入試競争のゆるい二流三流の中学校で学年差による年功序列支配が貫徹し始めたことによる、と言っています。 これは、入学志望者が多い伝統的な一流校よりも、入学競争のゆるい二流・三流校に多く現れた。一流校には浪人の比率が高く、「年少の上級生」「年長の下級生」がありえたので、学年差による年功序列支配が貫徹されにくくなっていたのである。エリートを自負したリベラリズムの「伝統」と美化されているものの実質が、実はこのような入試状況に多分に規定されたものにすぎなかった、といえるかもしれない。旧制高校や、それと直結した帝国大学などで、あからさまな年齢差に基づく「先輩・後輩」関係がさほど根づかず、むしろ同窓意識のほうが強力だったのも、右のような事情によるものといってよい。 学校の秩序と親和的な年功序列意識とは別に、学校は「同窓意識」をその傍らで産出しつづけていた、といえるのかもしれません。植民地統治下の台湾の尋常小学校の同窓会に日本人同窓生が2001年に360万円寄付した、などという記事を見ると、「同窓意識」は政治や国境も越えてしまうのかと思ってしまうほどです(41)。 この「同窓意識」は近代学校特有のものでしょうが、こうした意識は村落共同体の共同意識とつながっているのではないでしょうか。同郷意識もまた過去の時間の共有から生まれたものだということでしょうから。 故郷というのはあらかじめ存在しているのではなく,移動したことによって発見されるものとしてある。従って故郷の成立は,移動が行われることによって始まるのである。沖縄県内における郷友会の形成も,農村・離島から那覇への移動によって,もと自分がいた地域を振り返ることによって,故郷が発見された。その故郷概念が成立していくときに,次の三つの事柄が特に強調される。一つは歴史という過去の時間を共有していること,二つめは同じ風景・空間をもつという感覚であり,三つめに言葉を同じくするという意識であり,その地域の言葉で感情を表すという主張である。そのような故郷概念を共有するためには,故郷,すなわち母村における共同性と生活文化への体験が前提となる。(42) 学校的権力秩序は、過去となることで、疑似共同体として復活し、実際の学校生活を同窓会の語りで置き換えられ、いわば故郷としての母校が発見されてくるということでしょうか。 さて現在、過去共有疑似共同体は、「母校における共同性と生活文化への体験」の固有性を産出できているでしょうか。これが社会一般の経験と境界線のない状況になり、いわば「学校」が「社会」の波間に埋没して、いっそう社会と区別がつかなくなっていくとき、学校が「開かれて」社会に融合し、校舎だかビルだかわからなくなり、教員も常時背広にネクタイという身なりで、首から身分証を下げている時代に、はたして「母校」を産出できるのでしょうか。 近年の新しい学校建築を見ていると、廊下から丸見えというか「開かれている」教室や、廊下というにはあまりにも広いオープンスペースをもつところが目立ちます。 閉ざされた空間が「開かれた」ということに注目がいきがちですが、これは逆に考えると、「廊下」の消滅ないし、教室の「廊下化」といってもいいかもしれません。 「こら、そこ、うるさい、出て行きなさい!」とか、「廊下に立っていなさい!」などという昔よくあった罰は、意味がなくなります。廊下に出されたって、教室と同じようなものですから。 「家庭訪問」で紹介した韓国の映画「我が心のオルガン」の撮影に使われた木造校舎は、セットではなくて実際に残っていた校舎だということです。映画では、子どもたちが一斉に並んで廊下みがきをするところが出てきていました。私らの世代の記憶にも廊下を磨かせられたことが残っていましょう。この生徒による廊下磨きの伝統はいつからかわかりませんが、国民学校でもやっていたようです(43)。 土足の学校(一足制)が多くなっていたり、二足制ではスリッパを使っているわけですから、現在の学校は、素足で生徒が走り回っているわけではありません。その意味では廊下は道路とつながっていましょう。荒れた学校で、バイクで廊下を走り回って騒ぐ生徒がいたりまします。 ところが、廊下の床磨きを熱心に指導した時代の校舎は素足だったのでしょうか。だとすれば、そこに道路ではない廊下という空間の特殊性があったと思われます。 ハンセン病療養所の学校では、教員は生徒とちがって、土足で教壇に立ったといいます(44)。 ハンセン病療養所内の学校以外ではどうだったのでしょうか。つるつるの床と裸足の感触が、いわば「学校」構成員たちの一体感を醸していたのかもしれませんが、教員は裸足ではなく上履を履いていたかもしれません。旧制中学校は尋常小学校とはちがって土足だったのでしょうか? 戦時中に軍人が中学校に常駐したのでしょうが、軍人が裸足であるはずはないでしょう。 「我が心のオルガン」の映像では、教室と廊下の間のガラス窓は透明なガラスが上で、下がスリガラスでした。廊下から教室は歩きながら見えないこともない、教室から廊下を通った人が誰なのか注意を払えばわかる。そういう教室と廊下の関係が絶妙なタッチで描かれていました。昔の校舎における教室の内と外の関係は、単純に閉鎖かオープンかという二分法でははかれない微妙な関係を表現できるのです。 小学校では、絵画作品などを貼ったりするのは小学校ではよくあることです。教室にはクラス全員の作品を貼り出しますが、廊下はなかばクラスを超えた公共空間ですから、「優秀作品」が張り出されたりします。そのほか全員に対する連絡掲示板とかポスターなどもはりますから、廊下はいってみれば「交通空間」です。この廊下にリナックスデスクトップPCを20台ならべて生徒が自由に使えるようにした小学校とか(45)、廊下に机やイスをだしてそこで自習をやっている「廊下学習」の川越高校とか(46)、廊下を図書室にしよう、などという東京シューレ(47)など、廊下空間はさまざまな試みを引き寄せています。「教室」に入れない生徒はいますが「廊下」ではたたずんだりうろうろしたりできるんですね。『学校の階段』という映画があるらしいですが(48)、「階段クラブ」の生徒たちが廊下や階段を疾走するという、なんだか面白そうでもありますが、これオープン教室の学校を舞台にしたら「映画」にならないのではないでしょうか。「学校への香水のつけ方」などというサイトがあり(49)、近年は男子でも香水を付けていますから、こういうサイトでお勉強しているのでしょうか。ここでも教室と廊下での香水の匂い方の違いに注意を払っています。「廊下とかですれ違った時にフワって香らせたいの」という生徒たちにアドバイスをしています。 学校の廊下という空間が持ってきた特別な雰囲気は、おそらくリノリウムの床材、スリッパなどばかりでなく、オープン教室の普及という「開放」の流れによっても、かつてのそれを失っていき、学校空間は他の社会空間と見分けがつかないものに、少しずつ変わってゆくのでしょうか。 「君が代」斉唱の強制問題に隠れてますが、校歌斉唱はどうなのか。校歌は問題ないじゃないか、とたいていの人が思っているのだろうと思います。でもこんな歌詞ならどうでしょう。 「質実剛毅の魂を/染めたる旗を打振りて/天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち/勲したてむ時ぞ今」(50) 大阪の高津高校の前身、高津中学の「高津中学を歌へる歌」は 「栄ゆる皇国日の本の/民の使命を身に負ひて/雄々しくみちを究めゆく/健児吾等の理想遠大し」(51) これは戦前ですが、日川高校ではいまでも上のような歌を歌っているのでしょうか。校歌の歌詞も曲調も、だいたいワンパターンで、周辺の有名な地名や風景を入れ「わが母校」と詠嘆し、若者をたきつけ励まし、それいけどんどん、という行進曲歌詞が基調で、たいていそこにその時の世界情勢を反映する言葉が入っています。いまなら「世界にはばたく」とか、昔なら「皇国の礎」とか「新大東亜の建設」になるわけでしょう。だいたい校長先生の訓示の基調と構成を一にしています。 しかし、校長先生の退屈な話と違って、集団で歌うことで、学校の一員としての一体感を感じさせ、それと国家・世界の情勢を結びつけるわけですから、この効果は校長訓話どころではありません。だが、このような校歌のもつ集団支配力は根っこのところから崩れてきていることは、間違いありません。 北朝鮮の放送には、この手の校歌調音楽に充ち満ちているようだが、もちろんその集団主義的まとまりの意図ゆえだろう。かつて日本の放送文化にも、この手の音楽がもっともっとあったと思う。戦前の軍歌や国民歌謡から、戦後のNHKのみんなのうたや学校教育のための歌など現在にもこの痕跡は読みとることが出来るので、僕には北朝鮮の放送のみを特殊視できない。こういった音楽は、集団主義的な結束があまり必要でなくなりつつある今日、何となく歌う気分にならなくなってきているのは当然だ。若者達は、校歌や国歌など誰も歌いたがらず、みんなバラバラに自分の趣味のあった歌を好きに選んで歌ったり聞いたりしている。(52) 正式な校歌とちがって、それよりも学生たちの中から生まれた学生歌が、校歌よりもたくさんの学生たちにうたわれ、それも儀式のときのマーチではなく、気の合った仲間たちと、あるいは一人で口ずさみ、やがてメジャーな曲になっていく、という例もありました。三高のボート部の歌「琵琶湖周航の歌」がそうであり、中央大学の学生であった藤江英輔が、学徒出陣で戦場に駆り出されていく友たちにささげた歌「惜別の歌」がそうでした(53)。 「正統右翼」(?)「一水会」の鈴木邦男は「君達の愛郷心を問う!小・中学校の校歌を歌えるか?」と問うて「中学や高校に「日の丸」や「君が代」を強制してるけど、僕は反対だ。がやがやとうるさい奴らに「日の丸」や「君が代」はもったいない。「日の丸」「君が代」がかわいそうだ。校歌、校旗があるんだから、それでいい。」(54)といっています。 「日の丸」も「君が代」も、学校の校歌で修練される集団の感情を土台にしてはじめて成り立ちます。それなのに校歌も歌えない子どもたちに「日の丸」も「君が代」も意味がない、さらし者になっているだけだから失礼である、と鈴木は言いたいのでしょう。 しかし、鈴木には気の毒だけれど、もはや学校は愛郷心や愛校心を育てられるような場所ではなくなっていましょう。マスコミが学校や教師をバッシングする中でどうしてそういう感情が育つでしょうか。 校歌の中に悲惨な戦争の経験を読み込んだ那覇高等学校の校歌にしても(55)、高校の校歌を路上ミュージシャンと教諭が共同制作した都立八王子拓真高校の校歌にしても(56)、シンガー・ソングライター大黒摩季に作詞作曲してもらった北海道登別明日(あけび)中等教育学校の校歌にしても(57)、集団の儀式のために作られた歌が「惜別の歌」のような拡がりを持っていくとは思われません。このような「校歌の効果」の衰退のなかにこそ、私たちは明日の学校への希望をかたる必要があるのではないでしょうか。 「我が心のオルガン」の3回目を見てしまいました。1960年代の韓国の小学校は等級制のようで、いろんな年齢の生徒がいるのですが、その生徒たちの足下に注目していました。やはりほとんど素足でした。穴の空いた靴下をはいている子もいました。先生たちはスリッパのような上履きでした。それで3回目の視聴の目的は達したのですが、別の問題を見つけました。 トイレに同僚の女教師との間柄についての落書きを、若い教師カン・スハがあわてて靴で消す場面が出てきます。トイレは校舎の外らしくて、ここは靴ですね。生徒が書いた落書きですからトイレは教員と生徒は共用でしょう。あとでこの女教師と落書きについて会話する場面も出てきますが、「子どもの落書きですから気にしていません」とか言っているだけです。「落書するな!」という指導はしているのでしょうが、そういう場面は出てこない。落書は落書として、生徒たちの表現として「許容」されているのかどうかわかりませんが、どうもあまり角を立てていない風なのが気になりました。 学校の落書は、大昔からあったのでしょうか。こういうのは学校史などにはのるわけがないですから、調べようがありません。それこそ聞き書きに頼るしかない。相合い傘というような「古典的」な落書ならまだしも、落書防止のためにせっかく硬い机にしたのに、そこに彫ったり、シンナーでないと消せないもので書いたりするしつこいのが出現したのはいつころでしょうか。木製の簡単に彫れる机に「卒業記念」彫刻をする奴がいたのでしょう。まあ、日本人の落書癖は世界的に有名らしいですが(58)、この頃は学校に落書はあまり見かけられなくなった様な気もしますがどうでしょうか。差別落書は学校はじめいまだに無くなってはいないようですが(59)、落書の場所が、インターネット掲示板に移行したためでしょうか、落書の目的が集団内での裏言説ではなく、不特定多数にむけた「スペクタクル言説」になってきています。学校や会社内で通用すればいい時代から、同僚とか仲間のなかでの匿名の「批判・ぐち・中傷」は、その「効果」をも測ってもいたのに、もはや集団内での効果をねらって、その集団をなんとかしようという意図はすこしもありません。 最大の落書掲示板「2チャンネル」にこんな紹介がありました。 某大会社の便所にて。 「 」一つ一つが違う筆跡だと思って下さい。 「この会社は腐っている!不正をしている!違反だらけだ!」 「電波がうわごと言ってるんじゃねぇ」 「証拠がある!○○部長は不正をしている!○○の入札に○○が○○!」 「詳しく書いてもらおうか」 「これだけじゃない。オレはもっと知っているんだ!」 「↑これ本当だったみたいだな」 「不正なんかどこでもやってるんだから騒ぐな」 「お前、○○会社の○○か?出入り禁止にするぞ」 ……何だかなぁと。まるで2chだ。つーか2chが便所のラクガキなのか。(60) 落書というと、差別落書、誹謗中傷落書、エッチ落書ばかりを想像しがちですが、「芸術的」な大道芸ともいえるグラフティまで視野に入れて考えなければならないかもしれません(61)。マルチチュードの表現と言えるかどうかは別として。言葉にしろ絵画にしろ、その中味は、それが誰に向けて語られ、表現されているのかによって、規定されてくるだろうと思います。いま、学校というところで「落書」が消えていっているとすれば、それは「好ましい」と同時に、内に向かう批判精神の衰退であるのかもしれません。もはや「学校」という内部にその別のあり方への願望・可能性をも込めた「ぐぐもった感情表現」さえ枯渇し始めた、と考えるべきなのでしょうか。それとも、「学校」も「会社」も「社会」もあるいは「国家」も「世界」も、それらがひとつながりのものとしてイメージした上で、その世界大の公的言説にむけた「落書」の時代をインターネットは切り開きつつあるのでしょうか。そういう言説が「便所の落書」と同居している、ということでしょうか。 それはともかく、学校の落書というものも、大きくその「地位」を下落させてきたとはいえるのではないでしょうか。「学校」と「落書」とは運命を共にしてきたのでしょうか。 学校の未来を想像するには、現在、産業界で起こっていることを観察することが参考になります。なぜなら、「学校経営学」は常に企業の経営を参照してきたからです。銀行マン出身者が中学や高校の校長になる時代です。教員の仕事だってその仕事量を数値ではかって偏りなく配置できるはずだ、と静岡県沼津市立沼津高校の校長は考えます(62)。 ここでは校長は職員室に常駐し、先生が教頭と校長に同じことを伝える時間を節約しているそうです。 ところで、日本IBMという会社は、営業部門の職場から個人用のデスクを廃止しています。顧客への訪問が仕事の営業担当者に個人机はいらない、というわけです。 仕切り壁のない室内には、4、6人掛けのテーブルが300、400人分だけ並ぶ。ここで仕事をするときはどの机を使ってもよく、社員は自分専用のノートパソコンとロッカーを持つ。試行期間の社員の反応は、「顧客への訪問時間が約4割増」「社員間の会話が活発になった」などが多かったといい、同社は2005年末までに箱崎事業所内にいる全営業担当者約5000人にこの仕組みを広げる予定だという。(63) ここにあるように事務所はオープンスペースなのです。個人の机が並んでいる事務所ではないのです。ノートパソコン一つあれば、どのテーブルでも作業できるから個人机は必要ない、と。LANやインターネット経由で文書なども自由に参照・送信できるというのですから書類の束もいりません。社長や上司は各テーブルで作業している社員に声をかけて回りますから、社長室や役員席でふんぞり返ってもいられません。昔の会社のイメージは「○○君、ちょっと社長室まで来るように」で、○○君は社長室むけの顔をつくって出かけていきましたが、オープンスペースの事務所では社員は普段の顔を見られてしまいましょう。 「○○、すぐに職員室の××まで来なさい」と校内放送がはいると、○○君は、「やばい、おこられるのかな」と思ったりしたものでした。ところが荒れる学校では、教員は職員室などに座っていられません(64)。 教員は学校の中をすべて見わたせる必要がありますから、職員室より廊下とか階段に「常駐」している学校もあります。 「校舎内から死角をなくす」ことも徹底した。荒れた学校は職員会議が増えるが、前田校長は逆に会議を大幅に減らし、校舎の隅々にいつも教師がいる状況をつくった。各教室前の廊下に木製ベンチを置き、校長室と職員室のドアも開放し生徒と教師が談話できるよう気を配った。(65) しかし、教職員は学校の中だけ見ていればいいのではないのです。下記の引用は文部科学省のサイトから「門等における不審者侵入防止の対策事例」。 ○ 職員室等については、来校者の動線や屋外運動場を見渡すことができ、不審者侵入時にも即応できるような位置に配置することが重要である。(66) これは現場の取り組みから見ても不十分。教員はすでに校門当番などで動いています。職員室の窓から見えるといったって、悠長に窓の外を見ている時間など教員にはないですから。職員室の廊下には「さすまた」が備えてあったりします(67)。 とうぜんというか、この流れでは、職員室の窓ガラスは、磨りガラスから透明なものに取り換えられたりもしますが(68)、これを先取りしていたのがオープンスペースを導入した学校です。職員室も校長室もガラスばりで、学校の中を通っている公道からもまるみえの吉備高原小学校などがそうです(69)。「職員室」なるものがあると、そこが攻撃の対象になり、窓ガラスをわられたり(70)、幼稚園の職員室に侵入して家庭調査票を盗み出し、その調査票にもとづいて園児の家に盗みを計画するなどの犯罪のターゲットにもなります(71)。 これらを解決するには、職員室をなくすことでしょうな! 教員は常に廊下や階段やトイレにうろうろしているほうが、「生徒の相談にのりやすい」でしょう! 外部からの侵入者に機敏に対応できるでしょう! 交番をみてごらんなさい。警察官は常に街に出かけて「営業」に専念しているから机はいらんのです? 教員は廊下にテーブルをおいて作業してはどうか? ただしノートパソコンは無線回線を通して「データ」が外部にもれるおそれがあるから持たせませんがね。 かくて「職員室」の未来は「消滅」と出ましたが。いかがでしょうか? もちろん、これを理論化するにあっては、上記のような治安対策などを論拠にはしません。オープンスペースの法則というのがあるそうです。これが使えそうですね。 Owenが、オープンスペースの1つの法則は「主体的移動の法則(The Row of Two Feet)」だと述べている。これは、何も学べないし貢献もできないと分かったら、もっと生産的な場所に移ったほうがよいというものだ。つまり、セッションの移動は普通だよってことだ。(72) でも、こうなったら「何も学べない」といって教員がやめてしまうかもね。 チェスター・カールソンが「ゼログラフィー」という複写機を発明したのが1938年。その原理をつかってジョセフ・ウイルソンが普通紙複写機の商品化に着手し、「ゼロックス914」が1959年に誕生。日本では1962年富士ゼロクスが発売開始した。富士ゼロックスのHPにのっていました(73)。 青焼きコピーというのも学校で使った覚えがありますが、すぐに「ゼロックスする」ということに変わってきたことを覚えていますが、それがいつ頃のことなのか記憶にもないし、学校へのコピー機の普及がまたいつの頃からのことなのか。なかなかネット検索でははっきりわかりませんでした。 事務効率を飛躍的に向上させた「オフィス革命」が、学校現場におしよせて、教育にどのような影響をおよぼしたのか、といった研究があるのかどうか。論文情報ナビゲータで調べてはみましたが(74)。 本文を参照できるのは少なく、PDFファイルになってはいますが、これはコピー機にかけた画像が多いので本文から文字情報をそのまま引用できないこともあるようですが、めげずに検索してみました。検索のしかたが悪いのか、上記のような問題の手がかりがありそうな論文を探せませんでした。 ネット上の論文の公開ばかりか、学校でのコピーの多用も著作権というハードルがあって問題化していたりします(75)。 私の関心は、簡単にコピーができるようになってから、授業のしかたや学生の勉強のしかたはどのように変化したのか、それにどんな能力が向上したり、効率良く勉強できるようになったのか、あるいは別の大事なものが失われていったのか。そういうことを考えてみたいわけです。 コピー機の普及がなければ、大学門前の「講義ノート屋」という商売は成立しないでしょう。大学の講義に出なくとも講義ノートを500円だかで購入すれば、試験くらいはパスするから講義にでないという大学生の生態も、このコピー機の技術によって支えられていましょう(76)。 小中学校から高校でも教員は、生徒に配布する印刷プリントの類いにまじって、コピーされた書類の整理に追われています。職員会議には大量のプリントやコピー書類が配布されます。もちろんこれら大量の書類は、パソコンの普及が追い討ちをかけたものではありますが、それ以前からコピー機がそうした環境を準備していました。 「保健室に放課後来なさい」という生徒宛の連絡用紙もコピーされた様式書類に氏名などを書き込んでいるものだったりします。担任が生徒への連絡を忘れたりしないようにするには大変便利です。口頭だけだと、連絡したという証拠ものこりません。生徒が忘れるかもしれません。多数の生徒へのちがった連絡事項だと、担任はとても覚えていられませんから、こういう連絡票は便利です。 でも、それ以前はどうしていたのでしょう。手書きのメモをもとに口頭で伝えていたのだと思います。そうすると生徒は、単純な連絡ばかりか日付日時、持ってくるものなどを口頭で伝えられると、それを聞いてメモをとるか、しっかり覚えようとしていたでしょう。コピー技術や印刷技術、さらにはコンピュータの学校への普及は、もしかしたら「声と記憶」の技術を後退させたかもしれません。 印刷物は、「あとで読む」「あとで確認する」ことができます。ところが「声」を保存して後で確認したりというのは、録音でもしないかぎりできません。文字文化が声の文化を駆逐したように、コピー機や印刷機、パソコンは私たちの「声」を少なくとも「公的伝達」の世界から追い出してしまったかもしれません。 そればかりか大量の印刷物は、一枚一枚の情報伝達力をそいできたでしょう。連絡票を手渡すときに、教員は必ず「声かけ」と「声による説明」を「個人」にしないと連絡票の内容は伝わらないことがあるのです。つまり生徒はたくさんの書かれた文字に目を通すことを「じゃまくさい」と思い始めているからです。 しかし、この紙に書かれた文字の文化は、これから大きく変わってくるかもしれません。大学の門前の「講義ノート屋」さんは商売にならないためか店じまいするところがあるそうです(77)。売られるノートが劣悪になったためなのか、コピー機が格安になったためなのか、5円コピーのせいなのか、それともパソコンでノートを取る学生が、ネットで売るためなのか、はたまた、ネット上の「講義ノート屋」があるからなのか、それはよくわかりません(78)。 コピー機が発明されたとき、芸術家たちはその技術を駆使してコラージュというアートスタイルに活用しました(79)。 コピー技術がクローズアップした著作権の過度の主張は、切り張り組み合わせによる創作の可能性を奪っていくでしょう。コンピュータプログラムの著作権の主張はアメリカの世界戦略のひとつでしょうが、そうした主張は、元の著作物をそのままコピーして使用するだけの、創造性のない使用法が「声」の枯渇、アウラの消失を招いていることとみあっているのではないでしょうか。コピーガードをかけられるとコラージュは制限されてきます。 複製技術が芸術作品から「アウラ」を消滅させてしまうと指摘したのは、ベンヤミンですが、彼は単純に複製技術を非難していたわけではありません。 映画は、その財産目録ともいうべき全機能のなかから、クローズ・アップの手法を使って日常われわれが馴れ親しんでいる小道具のディテイルを強調し、対物レンズを自在に駆使して陳腐な環境を探求し、一方では、われわれの生活を支配している必然性の連鎖への洞察をふかめるとともに、他方では、予想もできない巨大な活動分野をわれわれに約束する。安酒場・都市の街路・オフィス・家具つきのアパート・鉄道の駅と工場、そうしたもののなかに、われわれは救いがたく封じこまれてしまいそうだった。そこへ映画が出現して、この牢獄の世界を十分の一秒のダイナマイトで爆破してしまった。(80) インターネットの検索を主たる道具にして学校の今昔を調べているのですが、検索技術の未熟なためか、なかなか検索したい事柄にたどり着きません。今回は小学校などたいていの学校にはある「放送室」です。いったいいつごろから「放送室」が学校に設置されたのでしょうか。 文部科学省「我が国の教育水準」(昭和50年度)にある「公立小中・高等学校における教育機器の普及状況」という統計によると(81)、昭和47(1972)年の校内放送装置の普及率は、小学校で93.9%、中学校で87.2%、高等学校で91.8%となっています。これ以前の文部科学省の統計は見つからなかったので、「昭和」と「放送室」で検索を入れると小学校などの学校史の年表がたくさんヒットしてきます。そこではたいてい、戦後10年以上たってからの放送室設置がのっていました。戦前の放送室設置は見つかりませんでした。ただ、昭和18年の4月北朝鮮の咸興府の日本人小学校に教員で赴任したという人の思い出話の中に「「時局研究部主任」を命じられました。”児童の士気を鼓舞して戦意高揚の教育方法を考える”と言う研究と実践でした。その実践の一つに、少年時代に自分が興奮して夢中に読書した、「海野十三著・怪鳥艇」を全校放送で、週一回昼食時に朗読したのです」とありますから、校内放送設備が戦前からあったという可能性はあります。 1935年から全国向けの学校放送は始まっていて、戦意高揚に役立てたようですが(82)、ラジオ放送と校内放送をリンクさせていたのかどうか。ラジオの前に児童を集めて聞かせていたのかかもしれません。 いまでも、小学校で放送部や児童会などが朝のあいさつ放送、昼の音楽、下校時の放送などきっちりやっているところも多いのでしょうか(83)。「NHK杯全国高校放送コンテスト」などに出場する高校などは別にして、高校ではあまり生徒が校内放送でがんばっているようには思えませんがどうでしょう。昔は昼休みなどには、DJなどをやっていた学校が多かったと思いますが、この頃はiPodとかで、各自イヤホンでめいめいの音楽を楽しんだりしていますから、校内一斉放送で音楽を流すスタイルはあまりはやっていないのでは、と推測するのですが、こういうデータはインターネットでは探しにくいです。日常ありふれたことはわざわざブログなどにも書かないからだろうと思います。 また、この頃の校内放送設備は、職員室などの電話から放送を入れられるようになっていますから、教員が生徒を呼び出すのにつかったり、委員会や会議の招集呼びかけに使ったりしていますので、放送部が健在な学校でも連絡放送で中断されたのでは興ざめです。家本氏などはこんな「校内放送コード」などを提案しています。 1 放送による教師・生徒の呼び出しはおこなわない。 2 放送による注意・説諭などの指導はおこなわない。 3 放送は原則として放送部のアナウンサーがおこなう。 4 生徒が放送部に無断で放送することは認めない。教師の場合は、だれでも放送することができる。 5 原則として、生徒への連絡事項は昼のニュース番組で報道する以外はおこなわない。 6 ただし、在校中の生徒・教師・父母・地域住民・訪問者の生命を守るという緊急な場合はこの限りでない。 学校から外へ漏れる「音」「声」は、以前なら地域住民が学校の活動を理解する手がかりでもあって、小学校の前の駄菓子屋のおばさんが「今日は運動会の練習どうだったの?」「みんな○○先生に怒られてたでしょ」などと子どもたちに語りかけてもいたのでしょうが(84)、都市部では、いまや学校からの音は「騒音」になってしまいました。ですから、英国の或る小学校では校内放送設備がないとか(85)。 でも、緊急時の連絡システムがないと学校の安全対策としては問題でしょうから、校内放送システムの売り込みは商売になりましょう(86)。 最近は高校入試の英語にリスニングテストが入りましたから、これが放送設備の厳密な使用、点検を要請します。別室受検とか受検時間の延長などもありますから、個別の教室で放送を使い分けられないといけないのですが、そこまで設備は整っていない学校がありますから、教員は対応に追われます。下記は大阪の教員の愚痴でしょうか。 高校入試でもリスニングにはどれだけ神経を使うか。教務主任や教頭は神経をすり減らしていますよ。ある学校の放送設備は古く、不安定で、事前点検してもその日の天候しだいで具合が悪くなるそうです。府教委は設備更新予算などつけないくせに手違いはないようにだけ言ってくるそうです。何年か前には本番のテープが欠陥品で、説明部分は異常に音が高く、ナレーション部分は異常に低いというものが配当された学校がありますね。しかも予行分は問題なしというものです。その時は情報担当の教員が必死で音量を調整しながらダビングしてカバーしたのを覚えています。リスニングなどは大阪府のような貧乏地域がするものではありませんよ。(87) 入試のリスニングなどは受検生は、それこそ耳をそばだてて聞いているのでしょうが、ふだんの校内放送では、自分の名前が呼ばれるのでもない限り、「声」は「音」としてしか聞き取っていないのではないでしょうか。体育館での聴きにくい校長訓話も同様でしょう。全体に向けられた「声」のなかから自分に必要な情報を「聞き取る」という注意力は、ラジオの時代からテレビの時代へ、さらにウォークマン・iPod、インターネットの時代環境への転換のなかで衰えざるを得ないのではないでしょうか。家本氏が上記の「校内放送と学校づくり」のなかで、かつての放送教育の指導目標を次のように(自主番組の制作に比較して)批判的に述べていますが、ここで述べられている「聴く」指導は今や至難だとしても、必要な指導になっているかもしれません。 わたしが中学校に転任した一九五〇年代、勤務校が放送教育の研究指定校になったことがある。ここでも「聴取」が主流で、指導の重点は、いかに放送された番組内容を理解するかにあった。その指導目標は「放送前に放送される内容について下調べする」「放送は静かに聴く」「どんな音も聞きのがさずに聴く」「想像力をはたらかせて聴く」「聴いたあと、学級で話し合ってさらに理解を深める」「聴いた感動がさめないうちに感想文にまとめる」であった。放送局から運ばれた番組をいかに適切に聴取するか、「賢い音の消費者」を育てようとしていたのである。しかし、放送は一方向性であるから聴取に相応しい学習形態だとして、疑問をもつことはなかった。(88) 注 (1)http://www.hokenkai.or.jp/1/1-6/263/263-6.html (2)山本拓司「国民化と学校身体検査」大原社会問題研究所雑誌 No.488/1999.7 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/488/488-3.pdf (3)たとえば海老原治善『民主教育実践史』 (4)「保育所における家庭保護者との連繋に関する調査研究報告書」平成12年度 社会福祉法人 日本保育協会 http://www.nippo.or.jp/cyosa/12_04/04_ta.htm とりわけ5.宮里勝子研究員による考察 http://www.nippo.or.jp/cyosa/12_04/04_03_54.htm 連絡帳の記述例(楽しい連絡帳) http://homepage3.nifty.com/moomoo/fm/F_FM4_RENRAKUCHO.htm (5)さいたま市教育委員会「平成18年度初任者研修テキスト 教師としての基礎・基本」 http://saitama-city.ed.jp/04kanko/siryo/17nendo/kyousitosite.pdf (6)はなまる連絡帳 朝日新聞2005年12月14日 http://hanamaru.enji.info/keisai05.htm (7)http://www.nikonet.or.jp/ ̄kana55go/omoide2/mokuji.html (8)http://www.nikonet.or.jp/ ̄kana55go/omoide2/omoide45.html (9)http://www.nikonet.or.jp/ ̄kana55go/omoide2/omoide49.html (10)http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%EB%BF%A9%A5%BB%A5%F3%A5%BF%A1%BC (11)学校給食センター調理業務の民間委託化について http://www.city.chiba.jp/education/edu/hotai/kyushoku/itaku.html (12)株式会社ときわ給食センター (13)http://www.nikonet.or.jp/ 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(28)http://blog.goo.ne.jp/kc6802/c/0626e2282e716cad213de04080b3af31 https://msg.kumanichi.com/cgi-bin/bbs/watashi053/bbs.cgi (29)http://news.livedoor.com/article/detail/2511087/ (30)http://www.ricoh.co.jp/koko/satelio/01/2.html (31)志村 章子『ガリ版文化史』その後 http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/koramu/shimura.html (32)http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki2/51.htm (33)教育特区一覧表 http://www.yomiuri.co.jp/nie/note/kyoikukaikaku/2.htm (34)http://www4.ocn.ne.jp/ ̄jcp-shin/hotnews85.htm (35)江東区枝川にある東京朝鮮第2初級学校の校舎の一部を取り壊して、都有地である校地の一部約4,000平方メートルを返還することと、1990年4月1日以降の使用相当損害金として約4億円の支払いを求めて東京都が提訴した裁判 http://kinohana.la.coocan.jp/edagawatop.htm (36)山辺学校歴史民俗資料館 http://www.city.matsumoto.nagano.jp/tiiki/sisetu/kyoiku/yamabe/index.html (37)『教育の文化史 4 現代の視座』2005 阿吽社 (38)http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-kyoudo/2room/kokuteiy.htm (39)http://www.city.matsumoto.nagano.jp/tiiki/sisetu/kyoiku/yamabe/No1/index.html (40)黄順姫『同窓会の社会学?学校的身体文化・信頼・ネットワーク』(世界思想社 2007)7p (41)建成尋常小学校の同窓会が母校に奨学金の寄付 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教育実践大百科事典 3 学校の明日
授業を聴いて質問したりノートしたりして学習し、その「成果」を試験で確認する、という学校のルーティーンは、学校以外にもその範型を広げてきました。たとえば○○研究会とか××学会などの知識生産集団では、講師を呼んできたり、お互いの研究成果を発表して、質疑応答、それから共同研究や個人研究による論文作成、本の出版というルーティーンが一般的でしょう。論文作成や本の出版は、「評価」に晒されます。まあそれが考査ということになりましょう。その評価が学会とか研究会の仲間集団に、広くて出版界など限られている場合を考えてみれば、これはほとんど学校のルーティーンと同類だということができましょう。 産業界でも同じことが言えましょう。たとえばマイクロソフトなどの会社がOSを作るには、多数のプログラマーを抱えて開発し、そのソースコードはもちろん企業秘密ですから非公開です。どこぞのオープンソースに「盗用された」と大騒ぎして「著作権侵害」で訴えたり、そのオープンソースでできたソフトを使ったら訴えぞと脅したりしています。企業ではソースコードをお互いに点検することができるのはその会社の開発プログラマーだけでしょう。その貢献度によってプログラマーの成績はつけられましょう。ですからこれも学校という閉じた学習空間を範型としています。 知識や情報の生産がこうした学校的組織のなかでだけ生産されている時代であれば、学校という近代組織も研究会や学会も、またマイクロソフトもずーっと安泰だったろうと思います。企業は学校秀才を集める努力をすればいいわけで、それは出身学校やその成績で判断すればよかったわけです。学校の秩序も正統性も、そうした企業の就職状況で維持されてきたのですから、学校は授業のルーティーンを範型として生産することで自らを再生産してきたのです。 さて、大学でレポート作成を学生に課すと、昔なら授業の内容やそこで紹介された文献を図書室で借りたり購入して読んでレポートを書いたものですが、いまではgoogleやyahooあたりで検索して、継ぎはぎのレポートを作成し大学の先生を悩ましています。そこで大学の先生は、インターネットにのっているものは屑だ、そんなものは当てにならない、と学生に説教したりします。それは一応間違ってはいないでしょう。なにしろ学会などで磨き上げられた本や論文は「著作権」関連で、多くの場合はネットにはまだのっていませんから、検索に引っかかるのは、そういう「学校的」知識生産のルールの外で生産されたものが多いからです。ですからインターネット利用を肯定する大学の先生にしても「玉石混交」だからちゃんと見分けないとイケナイよ、とアドバイスしましょう。ところが学生はなにが「石」でなにが「玉」なのか、その判断基準を「授業」ばかりで得るのではなくて、図書館をのぞかない学生は、まさにその「玉石混交」のインターネットから探してこなければなりません。しかも○○大学研究紀要とか何とか学会誌などを、とりあえず参照できなければ、別の参照可能などこの誰が書いたかわからない文章をみてしまいます。学生がたぶんよく利用するのがwikipediaあたりでしょうか。これこそ誰が書いたかわからないものですが、wikipediaの正確度を科学雑誌の「ネイチャー」が調べたら、ブリタニカ百科辞典を上回ったという報道があるようです(英語版のほうでしょうが)。これは多数の人が間違いを修正することが可能なようにシステムができているからだと梅田望夫氏はいいます(1)。これを梅田氏が「wisdom of crowds」(群衆の知恵)だ、と言っているのにであったとき、私はネグリとハートの「マルチチュード」を連想しました。インターネットという巨大なコミュニケーションシステムは〈帝国〉の基盤をなしていると同時に、「マルチチュード」が育っていく土壌だということが見えてきたように思ったからです。 リナックスはプログラムソースを公開し、地球上の多くの人たちの共同作業で、いまやマイクロソフトの足下を脅かすような存在になってきました。 いいかえれば、近代学校の知の生産システムは、それを乗り越える世界システムの到来によって大きく脅かされ、崩壊の縁に立たされているのかもしれません。このことがはっきり見えていないとしてもシステムの管理人は本能的にそれを感じとるのでしょう。「教育改革」の合唱は、そうした「おびえ」が裏に張り付いているのです。 多くの学校は「一人ひとりを大切にする」というスローガンをかがげていましょう。それが現状の学校教育にたいする批判の色合いで登場してきたのは1890年代です。それをいまさら我が学校の特色だなどと大威張りで宣言できるのははなはだ不勉強だといえましょう。1980年代ではございません。佐藤秀夫氏の研究によれば、個性の尊重または重視という考え方は、学制のはじめの時から脈々と流れていたのです(2)。 明治のはじめの学校は等級制ですから、個人の能力や学習進度によってクラス(級)が決まったので、同じ教室に異年齢の子どもたちが机を並べていたのです。「学制」が始まった当時、日本の各地では膨大なお金を出しあって立派な擬洋風の学校が建設されました。国家がお金を出したのではなくて、多くは村落共同体を構成する人々が拠出したのです。「国家」は、そうした共同体の協力なしには学校を建てられなかったのです。「學事獎勵ニ關スル被仰出書」が人々に説いた実学奨励は、「一人ひとりを大切にする」教育の起源だともいえましょう。学問は特別の人だけが学ぶものだとか、学ぶのは国家の為だ、という考え方を批判してもいました。 但從來沿襲ノ弊學問ハ士人以上ノ事トシ國家ノ爲ニスト唱フルヲ以テ學費及其衣食ノ用ニ至ル迄多ク官ニ依頼シ之ヲ給スルニ非サレハ學ハサル事ト思ヒ一生ヲ自棄スルモノ少カラス是皆惑ヘルノ甚シキモノナリ(3) 佐藤氏の上記の本を引用しましょう。 ともすると日本の近代学校は、その発生の当初から「国家ノ事務」の範囲内に限定されていたかにとらえられることがあるのだが、1870年代には民衆の自主的・自発性を喚起させなければ公教育の創設自体が困難であり、70年代後半にはそれに依拠する「人民自為」の方策が、初等中等教育学校において強調されたことがあった。 公私立学校教則の地域自主編成の重視、区町村学務委員の住民公選制の採用、学齢児童を対象とする私立学校をも含む私学の自主性の尊重等々…… もとより、1880年代前半と90年代以降に顕在化する天皇制公教育体制下での国家教育権論の「建前」上での優位により、教育における「人民自為」は、表面くり返し抑圧されることになる。しかし、それは決して絶滅されたわけではなかった。……「自治」「自為」の手続き自体を否定することは、公教育制度の維持を図る上で不可能になっていた。1870年以降に形成されてくる日本の学校が「近代学校」といわれる所以のひとつはここにあったといえる。 日本の近代学校は国家が上から作らせたとはいえ、村落共同体(コミュニティ)の下からの協力がなければ成立などしていなかったのです。「学校」という場所が色濃く持っている共同性イメージは、地域社会の共同性から「伝染」したものだったのではないでしょうか。今日も学校を共同体としてとらえたい傾向(「学びの共同体」とか)はここに由来しましょう。ところが、学校という組織は、会社などという組織と同様に一定の目的を持って設立された組織であって、明らかにその機能から言えば共同体ではないのです。 今日、新自由主義の潮流の中で叫ばれる「個性重視」と、近代教育創設時に村々の「個」にたいして「実学」をすすめるたのとは、言っていることは同じでもその内的論理は大きく変わっているところを明確にする必要がありましょう。今日の「教育改革」の中心は、いってみれば「組織」としての学校を、その目的に見あったものとして純化することにあります。それはいかに「共同性」をスローガンの一部に掲げていたとしても、それはめくらましです。組織としての純化は、コミュニティを不安定にし、混乱させ、そのことによって「自己実現」する「個」を生成するのが目標です。共同体に埋もれてきた「個」を抽出するのが近代学校の使命でした。 組織としての純化の果てに、他の諸組織と競合協力連携することでコミュニティに取って代わる。それらの組織はコミュニティを超越し、吸収することを目指します。それがポスト近代社会なのかもしれませんが、「学校」は、いまや、周囲のさまざまな組織に包囲され、家族や地域などの共同体から見放され、「組織」に「感染」させられています。会社の営業目標、その成績の数値化はあたりまえでしょうが、「学校」も目標に向かって疾走すべき「組織」として数値目標を掲げさせられてきます。 「家族」という集団に「目標」はありません。「地域」も同様に数値目標をかかげることのないコミュニティです。学校は、自己イメージとしてのコミュニティと組織体としての機能のダブルバインドの中で「統合失調症」になりかけているのかもしれません。 教育学や歴史学あるいは社会学が今日の学校について考察するとき、それが「学問」であることからくる決定的欠落がつねにつきまとっています。「学問」である以上、そこで述べられることには「証拠」がなければならない。そして「証拠」とは過去にあったこと、過去に言われたこと、過去にあった出来事を科学的に検証する、という枠のなかで見つけなければなりません。書かれた記録、統計、聞き書きなど、現在により近い根拠であっても、それは確定した「過去」もしくは現在を含む「過去」以外ではありません。もしそのなかに、確定していない未来が含まれていたら、それだけでその議論は「証拠なし」と断罪されましょう。したがって、おのずと「学問的」な仕事は過去の検証もしくは現在につらなる過去の検討に限定されてきます。そこには当然、現在に生きる論者の問題意識はありましょうし、未来へと差し向けられた示唆はありましょう。しかしながら「未来」は社会科学の「外」にいつでも追いやられ、つぶやきにしか出現しなくなります。 学校の現在について、人はその過去の姿を現在の状況と照らし合わせて検討しますが、これから先、学校はどうなっていくのかの未来予測には、無責任と非科学的の非難が待ちかまえています。素人談義として「学問的」批判の対象にもなりえないでしょう。 しかしながら、学校の明日は、未来予測ではないのです。現にいま学校がどうなっているかの補助線を引いてみれば、それが未来の学校なのです。理想の学校像という意味ではありません。いや、すでに過去の学校として検証してきてもいる「学校」のなかに、学校の明日が含まれているかもしれません。しかし、「学的」態度は、明確に認識できる、確認できることしか認めようとしません。歴史学がその最たるものでしょう。 フーコーの仕事にしても、ネグリやハートの『〈帝国〉』にしても、現在に孕まれている未来を探ろうとしたのです。ですが「学問」はいつでもその「未来性」を攻撃してやまないのです。フーコーの規律社会から管理社会へという考察は「過去」の考察のように振るまいながら、実は現在に孕まれている未来に向けられた分析でした。アメリカは帝国主義であって〈帝国〉などではない、という批判は〈帝国〉が現在に孕まれた未来だという事を無視あるいは過小評価します。 偉大な思想家たちは「過去」と「現在」にのみ捕らわれた学者ではありませんでした。しかし「近代」の学問はそれが「制度」となるなかで「未来」を忘れていったのでしょうか。 学校現場からは「もう疲れた」「はやくやめたい」「どうにもならない」というあきらめの声が聞こえてきます。早期退職の教員や若い教員の退職も多くなっていると聞きます。「昔は学校にも夢や希望があったのに、今は……」という基調の話は何の役にも立ちません。 経験が継承されず、かつての実践が忘れられる悔しさを乗り越えて、私たちは今日の学校が、どこへ向かっているのか、それはどのように軌道修正可能なのか、そういうことを考えていかないといけないのだろうと思います。 『今昔物語集』で語られているのは「今」は「昔」となった「過去」ではありますが、今から読めば、その物語にはその後の歴史展開が孕まれいたではありませんか。 ポール・リクールは下記のように述べています。未来性を包含する歴史認識へと私たちは向かわなければなりません。 たしかに、記憶力の現象学と歴史の認識論が、未来を捨象しても、純粋に回顧的な態度でおのずと理解される、という疑似的明証性に、知らず知らずに立脚しているのは、驚くべきことである。記憶が好んで、というよりもっぱら過去を対象とすることは当然である。私がくりかえしてやまないアリストテレスの定式「記憶は過去についてである」は、それが断定することに意味と力を与えるのに、未来を喚起する必要はないのである。……しかし未来は、この過去の定式表現では、いわば括弧に入れられている。……しかし未来の一時的消滅に方法論的に関係するのは、とりわけ歴史学である。それゆえにこの先で、未来性を歴史的過去の把握のなかに包含することについて論じるようになるが、それは歴史的認識の明瞭に回顧的な指向とはまったく反対の斜面に向かうことになる。(4) 習字は明治時代以前から寺子屋でも「手習」として学びの中心でありました。師匠・先生の「お手本」を見習って書く習字という学習の原型は、教師の世界でも長い間、その「実践」を規定してきました。 教師を目指すものは、優れた授業を見学し、その先輩の授業を見習って「教育実習」をしてきたのです。ひと昔まえに教師になった人たちは、斎藤喜博とか林竹二とか、優れた授業実践に学びながら、自らの授業を良いものにしようと努力してきたものです。それは大工さんや左官屋さんが親方の仕事を学ぶ仕方と同じとも言えるでしょう。ですから教師の仕事は職人の仕事だ、ともいえるでしょう。それは教師専門職論という議論にもつながりましょう。 しかし、もう少し別の視点から言えば、教師は「お手本」の授業を見て、それを真似ること、はっきり言えばお手本のコピー、それもお手本にできるだけ近いコピーを作成することに熱を上げてきたのだ、と言えるかもしれません。ところがその授業実践のコピー作業は、ちょうど絵画作品の忠実な複製が困難なように、芸術作品のような閾に達している「授業」や生徒指導などを「まねる」のはなかなかに困難なのです。 大西忠治のため息は、この困難から生まれましょう。 教育は商売のかけひきとは違う、人間の誠実さや正しさで堂々とぶつかるのが本筋だとは、私も思っているし、それを疑っているわけではない。商売にしたところが、単なるかけひきは、やがて相手にみぬかれる時はかならずくるのである。/そのことを百も承知した上で、なお私がこうするのは、ひとつには、私自身が生徒たちの手本になり切り、生徒たちに裸でぶつかって人格を通して教育をし切る自信が持てないからなのである。私は教育者として正しい人間でありたいとは思う。しかし現実に、その気持は毎日私自身によって裏切られているのである。私は普通の人間的な欲望を持ち、ときには、普通の人間以下の行動をしないとも限らないのである。「誠実に子どもたちにぶつかること」が正しいと知ってはいるが、自分が誠実にしているつもりでも生徒たちにそのためにかえってバカにされ、思いきって不誠実に生徒たちに一ぱつゴツンと腕力でむかってやったほうが現実の一時間の授業の授業能率をあげることができることを経験させられるからである。生徒たちを向上させたいという願いと、人間として教師としてりっぱでありたいという願いは決して他の人にくらべて弱くはないと信じているけれども、私は現に、国分一太郎先生や山びこ学校の無着先生や、近藤益雄先生や、鈴木道太先生などのような、人間的なあの不思議な魅力を持った人間ではないことを……自覚しないではいられないからである。だとすると私は、私のめざしている、そして、男女仲良く協力しあうとか、一時間の授業を静かに受けるとか……その他、文部省の道徳教育のプランに入っていたそれらのまったく反対しようのないよいことを実現するためには、どうしても自分の人格からはいちおう独立したてだてというようなもの、技術とでもいうようなものとして、あらゆることをこころみてみないではおれないからである。(5) 向山洋一の教育技術法則化運動が、多くの教師を引きつけたのも、授業が名人の域に達しなくても、その「技術化」で名人と同じような授業は可能であるというところにあったでしょう。 しかし、戦後民主教育の中で「教育」は戦後社会をリードした「民主主義思想」という普遍的な思想と一体になっていましたから、たとえば斎藤喜博の「授業」は彼の民主主義思想と不可分でした。(もっとも斎藤喜博は民主教育を「政治」から分離し戦後民主教育運動を「学校」のなかに限定するイデオロギーを生産して時代を画してしまうのですが。)生徒指導技術や授業技術を斎藤喜博から抽出できたとしても、「民主主義」思想を「技術化」してくることは至難の技です。しかし、民主主義が学校という制度や慣行、はては通達文書や書式のなかに内在していってしまえば、これはもはや意識的「実践」の対象ではなくなり、だれもが前提にする常識になりましょうから、教育技術は、その教育思想を気にかける必要もなくなります。 戦後民主教育のなかには、学校での生活をとおして子どもたちの半封建制にまみれた生活や生活意識を改善するという使命もありました。ですから生活指導はそれが「規律訓練」であったとしても、戦前の軍隊を範型とする「規律訓練」とはちがっていたでしょう。少なくとも主観的には。そうだとすると、戦後民主教育のなかの教育実践は、民主主義思想という普遍的なものと「規律訓練」を含んだ生活指導とは一体のものとして分離していなかったのだろうと思います。ところが「教育」の技術化過程の進行によって、「民主主義思想」は「授業技術」や「生活指導技術」との内的連結を切断されていくようになったのではないでしょうか。 こういう分離過程がない限り、名人芸としての「授業」を模範とする教師像を、それと不即不離に結びついていた「民主教育」思想を、教師の中から追い出すのはより難しくなったはずです。民主主義思想は、イデオロギーであるまえに、一人の教師の立ち居振る舞いとして現れていたのだとすれば、それは技術主義的なコピーでは到底学べないものだったのです。 それを、コピー可能な実践として描き出したところに大西や向山の「転換」の歴史的意味があったのだろうと思います。プロ教師の会の「実践」は、イデオロギーとしての民主教育と教育実践を切断したところに歴史的「意味」があったでしょう。以後、教育は、「反動的!」と言われないで「規律訓練」教育を実践することができるようになりましょう。これはいまや現在となった「未来」の先取りであったと言えないでしょうか。 コピー可能になった「教育実践」は、当然のことながら、そのコピーの精密度を段階別に分類し「評価」可能になりましょう。ただし「教えること」が教師の主たる仕事という位置づけがあるかぎり、名人芸を範型にされてしまいます。ですから生徒の「学習」の「支援」が教師の主たる任務ということになれば、このコピー不可能な授業を王座から引き下ろすことができるのです。生徒の「学習」の成果で教師の技術修得度は測定できるからです。 ところで、こうして民主主義=教育思想=規律訓練と一体化していた「教育」が、テーラー方式よろしく、さまざまな技術の集積に分離可能なものにされていく中で、「民主主義=教育思想」はどうなっているのか、いくのか、ということが問われなければなりません。いわば思想的な空白として、「教育」は「校庭開放」されているのです。ここにさまざまな「学問」「市民」「国家」「社会」そして「不審者」が入り込んできているのが現在ではないでしょうか。ここをどのように読み取って「未来」への補助線を引くのか。それが、この雑文の困難な課題でもあります。 試みに「人材 教育」という語を検索サイトで検索してみてください。googleなら300万件くらいがヒットしますが、はじめの方に学校教育関連のサイトなどが出てくるとおもったら大外れです。企業の人材育成、そのコンサルタント会社、や「月刊人材教育」を発行している出版社や企業の社員教育のサイトが延々と続きます。 企業は「教育」を行なってもいるのだ、ということを学校の教員は忘れてはいけません。学校は「人格形成」であり「全人教育」を行なっているのに対して、企業の教育は、会社で働ける「専門知識」や「専門技能」をもった「人材」の育成なのだ、つまり学校のほうが「人間」の育成をめざし、企業は「企業人」育成を目指しているのだから、学校の方が「教育」機関としては「上等」なのだと学校関係者は勝手に思い込んでいないでしょうか。 教育学のフィールドは、最近では「学校」に限らず、人類学的手法も使いながら、家族や地域社会などの社会諸集団などにも拡がっているようですが、「企業の教育」を研究対象にしているでしょうか? あるいは「教育関係」を研究している社会学は、企業の教育を対象にしてもいるのでしょうか? 大学で社会学を研究した人が、『企業内人材育成入門 人を育てる心理・教育学の基本理論を学ぶ』などの本を出していたりするようですが(6)、教育学や心理学や社会学は、社員教育の手段として使われてはいても、企業の教育機能を研究しているわけではないようです。 「企業内教育の分析 : 職業訓練所等の教育内容について」などという論文もあるようですが(7)ただのアンケート調査みたいです。教育学関係よりも、直接社員教育はどういうふうにやっているのか、どんな考え方に立っているのか、というようなことを調べたほうがよさそうですが(8)、いってみれば、これらは学校教師の世界で言えば「指導書」とか「実践報告」のたぐいですから、「企業教育」を研究したとは言えないでしょう。 JRの悪名高き「日勤教育」が企業内教育の本質だ、とくくってしまえるほど企業教育は単純ではないでしょう(9)。 もうだいぶ前から、企業は高校や大学の卒業生に、高校や大学で何を学んだかなどは期待していないのです。企業は自分のところで社員を教育しているのだとすれば、「学校の明日」は、もしかしたら「企業内教育」のなかに種を宿しているかもしれません。 学校の明日は、学校の内部だけではなく、いやより多くは、すでに「学校化した社会」のほうにその展開の種子は胚胎していると考えます。 学校で毎週土曜日が休業日になったのは2002年4月です。まだその歴史は浅いですから、休業土曜がだんだん授業でうめられていく趨勢に抵抗できないかもしれません(10)。 では、夏休みは大丈夫でしょうか。なにせ夏休みの伝統は古いですから、企業がどんなに学校を企業社会に近づけようとしても、夏休みばかりは「学校らしさ」の最後の牙城だろうとは思っているのですが。 佐藤秀夫氏によりますと、日本の学校の夏休みは欧米学校での風習の移入ですから、たとえ学校にエアコンが導入されて、暑くて勉強できないという理由がなくなったとしても夏休みは健在だとはいえましょう。なにしろ欧州の夏休みは「暑いから」ではなくて、太陽を求めて南へ下るバカンスのためなのですから。そういう「先進国」モデル意識が安泰な限り夏休みがなくなることはないと思うのです。 でも佐藤氏によれば、1880年代に法制化された「夏季休業日」「冬季休業日」が1941年4月以降の国民学校の時代には「夏季ニ授業ヲ行ワザル日」とされ「休業日」ではなくなった時代があるそうです(11)。軍人が「月月火水木金金」であるのに銃後の少国民が「休む」とは何事か! という「建前」と勤労動員の必要からだそうです。このような「統一志向」は教育現場でも健在です。 解放教育運動の時代に兵庫解放研の熱心な教師が「夏休みはないほうがいいい」と発言していました。なぜなら、せっかく4月5月6月と学校での生活になじんで落ち着いてきたゴンタたちが、夏休み後にまた荒れ出してしまうから、だそうです。 この夏休み前後の生徒の指導についての悩みは保護者や学校の「熱心な」教員にはずっとついて回っているようです(12)。夏休みに子どもたちが「野放し」になる心配というには、伝統的にあったわけで、夏休みの宿題に「夏休みの友」という勉強ノートがこのことを証していましょう。印刷された学習ノートはすでに明治の末期からあったということです(13)。 串間氏によりますと、 戦時中は軍国主義的な要素が取り入れられ、昭和一七年からは文部省国民教育研究所が夏休み帳を発行するようになった。このころのものは国家が読み物として与えるタイプで児童が書き込む欄がなかった。戦後は学習参考書メーカーの発行というよりは各都道府県毎に編集されており、発行は府県の教育会や教職員組合となっている。 ですから、上から下まで、大人たちは、みんなで夏休みの「不安」を抱いているわけです。そうだとすると、「夏休み」は安泰だともいえなくなりましょう。子供時代に夏休みをわくわくしながら過ごしたおじさん・おばさんは心配するのです。いまどきの子供たちも不安になるのではと推測しますが、どうも最近の子どもたちは夏休みはそれほどうれしくないのかもしれないな、とも思ってしまいます。地域社会の解体したところでは、学校は子どもたちにとってただひとつのコミュニティの「場」であるわけですから「場」がないと集れません。そうすると「遊べない」のではないか。だから夏休みは案外「つまらない」と思っている子がいないでしょうか。 現実に、小学校でも、夏休み期間はだんだん短くなっています。「ゆとり教育」がさけばれていた時代から兵庫県の小学校では、夏休みを利用した自習教室や補習授業への取り組みが広がっていたようですし(14)、京都市の学校では、「学力向上プラン」の中で、授業時数10%増のために、朝学習や夏休み補習、土曜補習などの実施が求められている、ということで、全員参加型の補習を行う学校が5割以上に増加したそうです(15)。 こういう夏休みの取り組みは、会社では夏休みがない保護者には支持されるし、どうせ「勤務」で学校に出なければならない教員のほうも、内的には「夏休み」は消えているのです。京都府立桃山高等学校では、夏休みには10日間、冬休み・春休みには各5日間の必修の補習授業をしています(16)。東京都立日比谷高等学校では、 9時限まである時間割、随時開かれる補習や、100講座を超える夏期講習……夏休みの講習は、予備校を凌駕する100講座を超える膨大な数を用意しており、土曜日には講習や補習が随時開かれる。土曜日には自習室を開放し、現役大学生のOBがサポートティーチャーとして支援している。また、希望すれば1年次に数学演習、2年次には数学演習やハングル、フランス語、中国語、ドイツ語などを履修することが可能である。(17) 公立高校は、土曜日休業がない私学や予備校に対抗する必要上、夏休みもほとんどなくなるというわけです。やがて何十年か後には、吉田拓郎の「夏休」や高校の音楽の教科書に載っている井上陽水の「少年時代」などの情感はわからなくなるのではないでしょうか。 1980年代、90年代までの『学習指導要領』は学習内容、授業時数の削減を指示しており、この傾向の総仕上げが現行のいわゆる「ゆとり教育」学習指導要領です。2002年度から実施されてきたこの方針が「学力低下」の原因だということで、中央教育審議会で見直しを検討しているということです。「ゆとり教育」の目玉のひとつが「総合的な学習の時間」でした。完全学校週五日制も2002年度から実施されてきましたから、これも教育再生会議の批判の対象になっているわけです。 7月22日の朝日新聞には「教育再生会議を問う」という特集記事があり、「ゆとり教育は経済的に恵まれない家庭の子の学力低下をまねき格差をひろげた」と指摘してきた苅谷剛彦氏が教育再生会議の目指す方向を「たいした病気でもないのに未熟な医者が緊急手術をすれば、健康な部分まで壊す恐れがある」と批判しています。 教育再生会議がねらう「教育バウチャー」は、生徒が学校を自由に選択できるようにすることで、学校を市場原理のなかにほうりこみ、生徒に選ばれない学校は予算配分をすくなくしてやがて倒産させ、「よい学校」は生徒に選ばれてますますよくなる、という理屈でしょう。戦後のみならず、明治の学制以来の教育の機会均等を国家によって維持するという建前自体がここでは放棄されるわけですから、近代学校教育にとっては、その根幹にかかわる「変革」であるでしょう。 では「ゆとり教育」は「人格の完成」を目指すという理念的なところにとどまり、産業社会ときれた「一人ひとり」の人格形成をめざしたのかというと、それはちがうだろうと思います。文部科学省は「新しい学習指導要領の基本的なねらい」を「完全学校週5日制の下,各学校が「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し,子どもたちに学習指導要領に示す基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせることはもとより,自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむ。」としています(18)。 このねらいを達成するために「総合的な学習の時間」を設けたわけです。この「総合的な学習の時間」は、日本の教育史の中で系統的な学習を批判してきた生活と学習を結びつける系譜に位置づける議論もあります(19)。問題解決学習やプロジェクト・メソッド、仮説実験授業などの戦後教育の流れの中に総合的な学習の時間を定位しています。 また、そうした生活と学習を結びつける実践を集めた成果も出されているようです(20)。ところが、教科の系統的な学習ではなく、「生活」のなかから共同の探求のなかで問題を発見するというやりかたは、企業の中で日常的に行われている企画会議などの方法と極めて近い関係があるのです。総合的な学習の時間=プロジェクト学習という定式は、創設の当初からあったのではないでしょうか。下記の引用は、1999文部時報(文部省発行)に掲載された鈴木敏恵の「愛で未来教育!プロジェクト学習&ポートフォリオ評価」をさらに詳しく説明したものということです。だいぶ長い引用で恐縮ですが。 いま時代へ先端的な仕掛けを投げかけようとする人々の口から必ず飛び出す表現が、この「プロジェクト」という表現だ。「プロジェクト」という言葉は、共有を意味する「シェア(共有)」と並んで、米国教育界のキーワードともなっている。それは、すでに定型化した仕事や作業の一部ではなく、ある目的を果たすための構想や計画全般を指す。日本でも「総合的な学習の時間」にフットする学習として広まりつつある。 <プロジェクト>という言葉は、ある目的を果たすための「構想」や「計画全般」を指す。それは、1人で出来るものではなく、「組んでやる他の存在」と、その目的に至る「フェーズ(局面・段階)」の上に成り立つ「一定の継続的な時間」が要る。 これを学校における「総合的な学習の時間/プロジェクト学習」に置き換えると、次のような視点が必要となる。 <テーマ>の設定をどうするか?。 教科書の存在がない<プロジェクト学習>。テーマは、誰かが与えてくれるものではない、自分で考え、探し出すものである。それは、子ども達みんなが一年間掛けて向かう船の行き先、目的地となる。そのプロセスで、子ども達が確かな力を身に着け、成長していく。そのようなシーンをいかに登場させるか、そこに教師のセンスが光る。 <プロジェクトリーダー>は、誰か? リーダーは、子ども達によるプロジェクトチームのメンバーが担う。それはフェーズごとの判断や方向を決めていく大切な役割である。また、どの段階で、どうテクノロジー(コンピュータ&ネットワーク)やスキルを持った人を活かすか、というようなことを考えるのも大切な仕事である。 <フェーズ(局面、段階)>を想定する。 教師には、起こり得るであろう、”先を見る能力”が要る。そして、解決のためには、「どんなリサーチが必要か?」「それは、どう調べればいいか?」「さらに適切な情報を得るため、専門家に会って話しを聞くことが必要か、」「そのアポイントメントは、誰がするか?」あるいは「インターネットで情報収集するか?」「それをどう集計するか?、どんなやり方でするか?」等々起こり得る局面をイメージし事前に手を打ち、極力スムーズにプロジェクトが進行するようにする。 <成果(作品)>を出す。 そしてフェーズごとに、出された成果を次のフェーズに続けながら、ゴールへ達する。その<最終成果(作品)>は、「インターネット上にのせる」、「レポートにまとめる」あるいは、「コミュニティー」や「その道の専門家」や「役所」へプレゼンテーションするなどがあり得る。(21) こういうプロジェクト学習で使われる用語に「ポートフォリオ(portfolio)」というのがありますが、これはもともと株式用語で「有価証券一覧表」をさすそうですが、ポートフォリオ評価法として総合的な学習の評価法になっていきます。 ポートフォリオ評価法は総合的な学習評価法として、ロンドン大学のS.クラーク教授を中心に考案され、1980年代後半にUK やUSAで取り入れられ、1990年代後半に日本に入ってきました。従来の科目テストや知力テストで測定できない個人能力の質的評価方法とされています。学習過程で生徒が作成したさまざまなものを収集し系統的に選択し、教師とともに生徒自身も自己評価を行い、ステップアップしていくというもの。(22) この言葉は一部の教育工学や教育経営学の学者が使っている言葉だろう、くらいに思っていましたが、そうでもないようです。 さいたま市教育委員会の初任者研修のテキストの「総合的な学習の時間の評価の役割」の項目には「児童生徒全員を、全観点で毎時間評価することは不可能ですし、その必要もありません。児童生徒の実態や学習過程・学習活動の特質を踏まえ、いつ、誰を、どんな観点で、どんな方法で評価するかを重点化し、ポートフォリオ等を活用して計画的に評価する必要があります。」と記述されています。 ポートフォリオって教育用語だったのだ。初任者研修のテキストで注釈なしででてくるのだから、教員養成の大学などでは教えていたわけ?(23) 総合的な学習の時間に込められた意図は、会社(=社会)で通用する人間の思考訓練の場として設計可能なようにできていたのでしょう。ですから、この「ゆとり教育」は、役に立たない「系統学習」を詰め込むより実践的な学力をつけてくれ、という要請への応答でもあったのでしょう。これは現行の学校制度の内側から産業界の要請する「人材」育成をできるプログラムとして設計されていたといえるでしょう。 総合的な学習の時間は、「人格の完成」と「企業社会の人材育成」の二股をかけていたともいえましょうが、そうした試みが産業社会の要請に逆らっているわけではないことは、労働力のいっそうの階層的生産を実証した苅谷氏の研究から明らかだといえましょう(24)。 そうだとすれば、教育再生会議の方向は、必ずしも産業界の全面的賛同を得られるとは限らないかもしれません。 教員は時代の流行語に極めて弱いのです。中高校生の使う言葉を知らない、という意味ではなくて、流行の教育用語(と考えたもの)をほぼ検証することなく使ってしまうという意味です。校長の訓話記録でも残っていれば、時代の教育用語の変遷をそのまま反映していることを多分実証できるでしょう。 学校の教育目標などに掲げられることが多いのが「自己実現」という用語です。たとえば、「生徒一人一人が、明るく充実した学校生活を送り、自己実現を図るため、すべての教育活動において支援を行う。」(25)など。 「自己実現」はもちろん中央教育審議会などが盛んに使ってきた用語です。ひとりひとりが自己の個性を伸ばし能力を発展させる、という程度の抽象的な意味で使っていますが(26)、中央教育審議会答申のなかでは1981(昭和56)年6月「生涯教育について」あたりが一番早い使用例かもしれません。 各種の教育研究会や学校の校内研修で「自己実現」という言葉が出現するのは「平成」になってからが多いようです。さすがに大学などでは昭和51?53年度に「自己実現をうながす学習システムの構想」などという研究課題が出ていたりします(27)。 「自己実現(self-actualization)」という用語はアメリカ合衆国の心理学者アブラハム・H・マズロー(1908-1970)の用語だそうですが(28)、この人は『自己実現の経営』(1967)という経営学の本も書いているようです。ですから、「自己実現」で検索をかけると、個人のブログなどで「自己実現するには」式の人生論とならんで企業の人材育成サイトなども引っかかってきます。たとえば、 イオンビジネススクールとは、「グローバル10」の実現に向け事業発展の原動力となるイオンのコア人材を早期選抜するとともに、従業員一人ひとりの『自分のキャリアは自分で切り拓く』という考え方に基づき、挑戦意欲のある人材が目指すポストを獲得し自己実現できるシステムです。(29) もちろん、教育関連のサイトもたくさんひかかってきます。それらの多くは「自己実現」を疑うことなく使用し、「自己実現」が学校や将来の職場などで実現可能なのだという暗黙の前提に立って使用されています。さらに、この「自己実現」という言葉をてこに、従来の学校教育はいらないのでは、という主張になったりもします。 端山貢明(東北芸術工科大学名誉教授) そう。それでね、もうこの頃は、私は教育ということを考えていないんです。「学習」なんですね。自己開発、その前に自己実現。要するに人間が人間として成立していくことを自分で一生懸命やっていく。その時には昔から皆さん、学校でがんがん教え込まれたようなあの教育よりも、自分にとって必要な機能が手元にある。それでコンピュータにここ(手)で触ると、世界中のあらゆる情報を手に取ることができるようになる。そういう機能があるとね、従来のあのタイプの学校というのは、あんまりいらなくなってくる。(30) 当然というか、こうした動向は大学「新」学科に反映してきます。南山大学大学院人間文化研究科 教育ファシリテーション専攻の「教育理念と目標」などをみると一目瞭然(31)。予想どうりというか、人権教育あたりも、この「自己実現」を好んで使います(32)。 こうした「自己実現」合唱に批判的な議論もあります。上野千鶴子は「仕事と自己実現が一致するなんて、大きな幻想ですよ。」「心理学者の罪ですね」と言っているそうですが(33)、心理学だけではなくて、「有能感、自己決定、フロー経験と自己実現」のような論文(34)に出会うと経営学など勉強したくなくなりますが、「自己実現」は職場における操作概念だということがよくでています。 宮台真司は、社会学者らしい批判を展開しています(35)。仕事で自己実現できるのはごく一部のエリートで、あとは消費で自己実現、というのが現状であり、仕事外、非消費主義的な自己実現ができていた生活世界をいまや失っている、それが問題なのだ、といっています。 しかし、学者とちがって、現実に企業という組織の中で働いている労働者は仕事の中で「自己実現」など無理ですよ、といわれたって、できればやりがいのある仕事にしたいと思っているわけです。それこそ小学校あたりから「自己実現」しなさいと言われてきているのであれば、たまには「自己実現」て何だったけ、でもなーそんなことより「生活」できるかどうかだよなー、と考えてしまいます(36)。「自己」という概念を越えるきっかけはこういうところにありましょう。 「自己実現」という言葉はあまり使っていませんが、経営学の巨匠ピーター・ドラッカーは、企業という組織のなかで生きてきた個人が、その企業という組織と距離をとりながらいかに一人の人間として生きていくかを考える必要があると気づき始めたのが1950年代の終わりだといいます(37)。企業経営者が従業員の「自己実現」を言い始めたのはもっと後でしょうし、教育現場に「自己実現」という言葉が浸透してきたのももう少し後のことでしょうが、これは、もしかしたら、いま否定されかけている「ゆとり教育」のはじまりかけた30年前と重なってくるかもしれません。ドラッカーの知識労働者が主流となったという主張をネグリ・ハートの議論と重ねてみる必要がありそうです。 教育現場は、進路指導などの具体的な場面はともかくとして「教育理念」など思想的な側面でも産業社会、経営学の大きな波に足下を洗われながら、そのことにほとんど自覚的でなかったような気がします。 廃校のなかで、ヤクザの先生にかこまれながらドンヒョク(キム・レウォン)は、数学や倫理の勉強をさせられている。居眠りをするとボムピョ先生(カン・シニル)がやってきて、逆さにつるしあげ、水の中にいれる。数学に興味が湧かないと、鉄道線路にくくり付けて汽車の到着時間の計算問題を出す。答えられなければ汽車にひき殺される。勉強は拷問によって強制される。シンジケートはボムピョ先生に組織の「犬」として警察に送り込むために不良少年ドンヒョクの教育を命じたのである。 2005年の韓国映画「Mr.ソクラテス」はアクション映画ということになっていますが、これは「教養」の映画です。学校で教えられる「教養」は強制されなければ学ばない、頭だけではなく、身体や感性までも「教養」によって強制的にでも形成されなければならない。そういう教養学校のカリカチュアを監督(脚本)チェ・ジノンは描こうとしたのでしょうか。 でも、この映画は教養主義、学校で知識を詰め込むことを攻撃しているのかというとそうでもないわけです。その教え込まれた「悪法も法である」などの「真理」を刑事になったドンヒョクは、刑事という仕事の中で自分の「人生観」として獲得していきます。そうして、自分を警察に送り込んだシンジケートと闘うことになるというストーリーなのです。倫理の授業で教え込まれた「教養」「真理」がやがて、その人の生き方を大きく変えていくのだ、という「教養主義」映画にもなっているのです。教養はまさに人格の陶冶につながっていくというわけです。服役中の泥棒稼業のドンヒョクのおやじが、息子に脱帽する、というのがラストですから。 1970年を最後に、日本の「教養主義」は没落したといわれ(38)、「教養主義」こそ、ドイツファシズムに知識人が巻き込まれていった主犯なのではないか、とF・Kリンガーは論じていました(39)。 いまや、日本でもアメリカでも、読書によって人格の完成を目指すなどという学生は皆無かもしれません。では「教養」は滅び去ったのでしょうか? 1987年、保守主義者アラン・ブルームの書いた『アメリカン・マインドの終焉 --文化と教育の危機』がベストセラーになりました。ニーチェ流の相対主義によって「善悪の区別が存在するという健全な幻想は、最終的に追い払われてしまった」とブルームは嘆き、次のように「大衆的相対主義」を批判的に描きます。 尊敬に値し、しかも手の届く人間の気高さは、善なる生の探求や発見に見いだすべきではなく、自分の「ライフスタイル」を創造することに見いだすべきである。「ライフスタイル」というものはただひとつきりではなく、多くのものが可能であり、おのおのが他と比較しようもないものである。ある「ライフスタイル」をそなえた者は誰とも競合関係にはないし、したがって誰にも劣りはしない。しかもこれをそなえているがゆえに当人は、自尊心と他人からの尊敬を、ともに得ることができる。こうしたことはすべて、いまや合衆国で毎日演じられている出し物になっており、心理療法は、価値を自分で定立することが健康な人格の基準である、とみなしている。(40) 「世界でたったひとつの花」といった気分をここでは批判していましょう。「自己実現」の時代風潮を批判しているのです。このことが「教育」の危機につながっているからです。「教養」とか「真理」あるいは「人格の陶冶」というのは、実は「教育」の根っこのところにからんでいましょう。 「教養」に相当するギリシア語は、“パイデイア”であり、意味は「子供が教育係に指導されて身についたもの」の事である。(41) そうだとすれば「教養主義」の没落とは、「教育」の没落と重なっていたのではないでしょうか。 昭和22年に制定された「教育基本法」に「教養」の文字は「第八条(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」だけでした。ところが昨年制定された「改正」教育基本法には、上記の政治的教養以外に、「教養」の語句が3個所も登場します。たとえば、 (教育の目標)第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 1 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。(42) 「教養」は「教育改革」のなかで、あらたな「位置」を与えられようとしているのでしょうか。諏訪哲二の『なぜ勉強させるのか』(2007 光文社新書)は、身体意識的教養主義ともいうべき「哲学」を展開しています。諏訪哲二は映画「Mr.ソクラテス」を見てなんというのでしょうか、聞いてみたいところです。自らの「教育哲学」を映画にしたものだと喜ぶのでしょうか。それとも諏訪教育哲学をオチョクッている、と怒るのでしょうか。 欧米の学校にはなくて、日本の学校に特有で、かつ古き伝統を誇っているものに修学旅行があります。 佐藤秀夫氏が紹介されているのですが(43)、海外の修学旅行でアメリカ東部を訪れた日本の私立高等学校生徒の一行が詰め襟金ボタンの黒サージ制服と制帽のゆえに軍人又は軍学校生徒に見間違われた、ということですが、この修学旅行の起源自体が「行軍旅行」にある(44)のでしょうからそのDNAは現在の修学旅行にも遺伝しているということでしょう。 修学旅行の起源については、河東真也さんという教育史学者さんのサイト(45)とか、新谷恭明「日本最初の修学旅行の記録について」(九州大学大学院教育学研究紀要,2001,第4号(通巻第47集))(46)などがネットで読めますので、そちらを参照してください。 ところが、修学旅行の研究は、修学旅行に関連している業界のサイトの方が「充実」しているんですね。 修学旅行ドットコム(修学旅行情報センター)(47)ここには修学旅行の歴史というかなり本格的な論文と念入りな年表が載っています(48)。 旅行業界での修学旅行関連の比率はどれくらいかわかりませんが、修学旅行で国内外の旅行経験をもとに社会人になってから海外や国内旅行に行くようになる人のことを考えると、修学旅行事業は「旅行」教育としてまことに重大な意味を持っていましょうから、業界が歴史、現状、新商品の開発、教育現場の分析、教育行政の動向などに、教員や教育研究者以上に熱心に取り組んでいるのは了解できるところです。 研究者の関心は、修学旅行の歴史やその教育的意義や現状、修学旅行指導の実際などに関心を向けますが(49)業界のひとは、それらに付け加えて、これから修学旅行はどうなっていくのか、という未来や展望にも関心を向けます。ここが学者との違いです。「大手旅行代理店の教育旅行団体専門支店、営業本部、本社にて教育旅行の営業、企画全般に十数年間携」ったという長月白露氏は「「少子化」による修学旅行への将来的展望」の項目の中で、次のように予測しています。 次に修学旅行の実施形態がよりグループ化、より個人単位で実施されていく。一部の学校でその兆候はすでにみられはじめている。費用の高額化にともない、修学旅行代金を低く抑えるために現地集合、現地解散の学校修学旅行が今後出現するかもしれない。 最後に学校一学年当たりの生徒数が減ったことに対して、学校間での「募集型の修学旅行の実施」が起こるかもしれない。共同実施、連合の実施形態はへき地の小さな学校などで実際にある。グル?プ化、より個人化は確実に進むものの、団体行動を通して実施する生活指導、とくに集団生活や公衆道徳の習得には修学旅行が有効なことをとらえれば、次のような実施形態も考えられる。 ・学年同時実施…学校内で一学年の生徒数が少ない場合に、二年に一度位の実施で学年をまたがって実施 ・連合形態での同時実施…いくつかの学校が同時期に実施。団体としての実施を前提として。 ・選択幅のある目的別実施…学校内で修学旅行のコ?スをいくつか設定して生徒に申し込み選択させる。クラス個人単位を超えた実施形態として考えられる。実際に行っている学校もあるという。またさらに発展させて地域の数校で募集するというのも考えられるかもしれない。(50) もちろん、こうした「業界」が教育的意味にも重大な関心を払っていることは、教師や教育学者たちと何等変わりはありません。いや、むしろ修学旅行が始まりの当初から「修学」というよりも集団生活・訓練のほうに重点があったことをさらりと分析指摘したりしています。株式会社教材研究社のサイトでは「修学旅行は、元祖「総合学習」であった」と修学旅行の位置づけを「時代の流れ」にあわせたりしています。 修学旅行という学校行事は、学習指導要領「特別活動」の中の「旅行・集団宿泊的行事」として位置づけられています。「特別活動」には、「学級活動」「生徒会活動」「クラブ活動」、それから運動会・学芸会等「学校行事」などがあり、その目的は団体生活訓練であって、集団の中における自己の認識を深めることにあるといえるでしょう。ということは、「修学旅行」に期待する実質的・直截的教育効果はさほど求められておらず、やや乱暴な言い方をするならば“お泊まり保育”の延長線上にあるということもできそうです。したがって、修学旅行において学校が一番重視し、旅行会社が一番神経を使うのが「安全確認」であることは象徴的です。とは言っても、相当な費用と時間をかけて実施する行事ですので、団体生活訓練だけではもったいない、ということで、歴史や地理、理科など教室で学んできた知識を、旅行先で検証する、あるいは体験を通して学ぶという形になってきたのが、修学旅行の姿であろうと思います。事実、教育団体の調査結果では、修学旅行の目的として中学校では「見学・学習」は4割弱、集団生活訓練と想い出づくりが5割以上で、高校ともなるとその傾向はさらに強まって、「見学・学習」は2割程度にとどまっています。(51) 修学旅行については、教師や生徒たちの支持が大きいだけではなくて、「業界」がガッチリその教育的意義から歴史、将来展望まで語ってくれているわけです。ですから「修学旅行不要論」というのはあまり見かけません(52)。 まあ、何かの不祥事で富山県の高校では修学旅行はほとんど実施していないとか(53)、進学や就職にマイナスになるとか、家族旅行にいける経済的な余裕ができたなどで修学旅行を廃止するところもいくつかあるようですが(54)単位制高校や通信制高校でもいまのところ修学旅行は実施しているようです。教員もいろいろ考えてはみるけれど、結局、否定論にはならないようです(55)。学校行事だから参加者が少ないと中止です、といって管理職が中止したのに怒って抗議して強制異動させられた定時制の教師もいたみたいですから(56)修学旅行は「学校行事」としてしばらくは安泰なのでは、と考えられます。 とはいえ、定時制高校では授業料もなかなか払えなくて、修学旅行の積立金を授業料に振り向け、修学旅行にいけなくなってしまう生徒も増えています。それに修学旅行代金は、いまや一般のパック旅行より割高になってしまっています。「個人」旅行や親しい友人との旅行には魅力を感じていても、「学校」という集団での団体旅行についてはあまり気が進まない生徒も無視できないほどに増加していますが、そうした動向を「意味」づけする教育者や教育学者の仕事はとうぶん登場しないでしょうし、「業界」のほうは、修学旅行にかわる「商品」は構想するかもしれませんが、廃止というふうにはなっていかないでしょう。 まあ、「大学の授業ツアー」とか、自衛隊とか海上保安庁の巡視船での体験訓練、大企業での職場体験ツアー(インターンシップの修学旅行版)などが出てくるのではないでしょうか。そうなると、修学旅行という名前は残るとしても、これは「学校行事」のひとつというより、学校よりも〈学校化した社会〉の各部門への学校機能のアウトソーシングということになるのではないでしょうか。修学旅行の生徒にとっての不思議な魅力は「非日常的な体験」であったのですが、そういう雰囲気はいつの間にかなくなって、「実社会という日常」への入口に転換していくことになりましょう。 注 (1)梅田望夫『ウェブ進化論』 (2)佐藤秀夫「学校観再考」『教育の文化史 1」阿吽社 所収 (3)學事獎勵ニ關スル被仰出書 太政官布告第二百十四號(明治五壬申年八月二日) http://www.geocities.jp/sybrma/61gakujisyourei.html (4)ポール・リクール『記憶・歴史・忘却』下巻(2000年 邦訳 2005年 久米博訳 新曜社 100頁) (5)大西忠治(1963)『核のいる学級』明治図書 教育の境界7月例会 倉石レポートから孫引き (6)http://book.diamond.co.jp/_itemcontents/0201_biz/44055-7.html http://kit.cocolog-nifty.com/kits_diary/2007/06/post_1388.html (7)http://ci.nii.ac.jp/naid/110001173218/en/ (8)社員教育のすすめ方 http://jmca.jp/column/emedu/emedu01.html (9)http://ja.wikipedia.org/wiki/社員教育 (10)土曜日も「学校へ行こう」 教育再生会議で提言 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/54840/ (11)『学校教育うらおもて辞典』(2000 小学館) (12)夏休み前後の指導 生活習慣の乱れ、学習意欲の低下を元に戻すには? http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2005/09/07genba_01.shtml (13)まぼろし第2小学校 串間努 ☆注 ここのサイトは一見の価値ありです。 http://www.maboroshi-ch.com/sun/school.htm (14)http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/020725ke67440.htm (15)http://www.kyoto-shikyoso.ne.jp/info/2007/06/23-141008.php http://ed.shogakukan.co.jp/cgi-bin/newshedline.cgi?selDate=20060728&type=backnum (16)http://www.kyoto-be.ne.jp/momoyama-hs/ec/page01.html (17)http://www.geocities.jp/kouritsustoritsu/hibiya.html (18)http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/010801.htm#05 (19)問題解決学習の授業に対する授業分析の方法に関する研究 http://cert.shinshu-u.ac.jp/center/bulletin/2001/0000317912.pdf (20)『あっ!こんな教育もあるんだ --学びの道を拓く総合学習』 http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=4-7948-0704-X (21)http://www.suzuki-toshie.net/project.html (22)http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/039portfolio.html (23)http://www.abetaka.jp/riron/sin/sin3.html (24)『階層化日本と教育危機?不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』 (25)平成19年度大垣西高校教育の方針と重点。 http://school.gifu-net.ed.jp/ogknisi-hs/gaiyo/h19/gaiyo/h19_jyuuten_1.htm (26)次代を担う自立した青少年の育成に向けて?青少年の意欲を高め,心と体の相伴った成長を促す方策について?(答申)平成19年1月30日 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/07020115/009.htm (27)http://www.asa.hokkyodai.ac.jp/fuchu/KENKYU/kenkyuu-ayumi.htm (28)http://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論 (29)http://www.posful.co.jp/07rc_004.html (30)http://www.mmdb.net/emedia/eport80/page2/eport-L136.html (31)http://www.nanzan-u.ac.jp/Daigakuin/Edufacili/jugyoukannrenn.htm (32)高槻市教育委員会が2000年4月に策定した「高槻市人権教育推進プラン」(抜粋)在日外国人教育の推進 http://www.mukuge.net/jinnkennkyouikusuisinnpurann.htm (33)http://simple-u.jp/pdone.php?id=679 34)http://nels.nii.ac.jp/els/contents_disp.php?id=ART0006324797&type=pdf&lang=en&host (35)http://www.miyadai.com/index.php?itemid=252 (36)http://www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi?%BC%AB%B8%CA (37)ピーター・ドラッカー『プロフェッショナルの条件』 (38)竹内洋『教養主義の没落』 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/boturaku.html (39)F・Kリンガー『読書人の没落』(1969 名古屋大学出版会 1991) (40)アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉 --文化と教育の危機』(みすず書房 1988)150P. (41)http://ja.wikipedia.org/wiki/教養 (42)http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/index.htm (43)佐藤秀夫『教育の文化史4』282P. (44)佐藤秀夫『学校ことはじめ辞典』 (45)学校の文化史 http://yas007golgo13.seesaa.net/article/7735622.html (47)http://shugakuryoko.com/index.html (48)http://shugakuryoko.com/museum/rekishi/index.html (49)「中等教育における海外修学旅行?国際理解教育からみたその一研究?」 http://www.obirin.ac.jp/graduateschool/thesis/2000/19741123.htm (50)http://www.geocities.com/CapitolHill/Parliament/3570/mokuji.html (51) (52)http://nhjournal.blog37.fc2.com/blog-entry-322.html (53)http://9102.teacup.com/toyamakowaitoko/bbs?M=ORM&CID=19&BD=14&CH=5 http://www.yatsuo-h.tym.ed.jp/gyouji.html (54)http://ja.wikipedia.org/wiki/修学旅行 (55)http://www.toyama-cmt.ac.jp/ ̄kanagawa/travel/shugaku.html (56)http://home.catv.ne.jp/dd/tkanazak/tyuusimondai.htm http://www.yoshidataisei.com/houdou_folder/n11/news11.html |
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